偏らない、行きすぎないこと。

お釈迦様の教えの中に「中庸」を守るべし!というものがあります。

弓弦をきつく締めすぎては、弓が折れる。かといって、ゆるめ過ぎては、矢が飛ばない。どちらに偏った状態も望ましくない。

などという文章が残っています。

中庸、ってけっこう難しい。「ここが真ん中」というガイドラインがあって、そこを歩きましょう、みたいな話にはぜんぜんなっていないんですよねえ…。

なので、お釈迦様も「ひとを見てから法を説け」とおっしゃっていたそうです。

その方のいまの場所を確認してから「西へ行くように」と教えるのか、「東へ行くように」と教えるのか、というのは大事なことです。「なにがなんでも西!」みたいな話をしていると、ちょっと通り過ぎてしまった方などは、どんどん遠ざかって行ってしまうことになるわけですし。

おひとりを相手に話しているときはよいのだけれど、大人数を相手にこれをやろうと思うととても難しくなります。

「西に行きすぎないように」って注意をした時に、その言葉で「あれ?行きすぎた?大丈夫?」って心配する人たちは、だいたいは、もっと頑張って西に進んでいただきたい方で、逆に「なんの話?もっと西でしょう?」って思っているか、あるいは、そういう注意すら認識していないようなひとが、とっくに行きすぎている、みたいなこともけっこうあります。

だから、個別の指導が大事なんですよねえ…。

そして、その指導を素直に受け止めることができる心持ちが必要になります。

「あの子には西って言ったのに!ワタシには東に行けって!それはワタシを仲間はずれにしたいからだ!」なんていうトラブルも、じゅうぶん想像できたりします。

ところで、わたしの父はかつて座禅の修行…の末席に参加していたことがあったようで、それなりに仏教の知識がありました。中庸、って良い言葉だなあ、ということで、この「庸」の字を使って子どもに名前をつけたい、と考えたのだそうです。

母は、なんとなくそれが嫌だったようで、だいぶ抵抗した…と聞いています。

結局「庸」の字は使われませんでした。

どうして?って聞いたら、この漢字に微妙に悪い意味があったからだ、と説明してくれました。追いかけて「どんな意味?」って確認したら、ひとこと。

「ぼんくら」。

ぼんくら 【盆暗】
(名•形動)文ナリ 〔もと博打(ばくち)用語で,盆の上の勝負に暗い意〕

頭のはたらきがにぶく,ぼんやりしている・こと(さま)。そのような人をもいう。まぬけ。
「―な男」「文三なんざあ―の意久地なしだつちやあない」〈浮雲•四迷〉

なるほど。

まあ、ボンクラってのは、ばくち打ちの言葉だったそうですが。

聞いた話だけで決めつけてはいけない…とブログを書くにあたって、改めて調べてみました。「庸」。そのものには「租庸調」の話の方などが出てきました。たしかに同じ漢字ですけど…。

他にもいくつか言葉がでてきました。で。庸医というものがありました。なるほど。医者にも使う「庸」の字。

ようい 【庸医】

凡庸な医者。平凡な医者。やぶ医者。

うーん…。あまり良い意味ではないのかもしれません。そもそも「凡庸」って言葉が「庸」を含んでいる言葉ですものねえ。

とはいえ、「大賢は大愚に似たり」という言葉もあります。いっけんボンクラに見えても、じつは賢い、なんていうことだってあるのかもしれません。

そういえば、「賢」の字も「さかしら」と読むと悪いイメージの言葉になります。それぞれの取り扱いと、効果の出方や、評価の基準によって、どちらにも変化してゆくものなのでしょう。

長所・短所も見る場所によって変化します。そのような評価にも偏らない、ということが大事なのかもしれません。