家族も他人

漢方内科での診療をしていると、いろいろなお悩みで来院される方がいらっしゃいます。そういう方にお話をすることもけっこうあります。身体だけ元気になったら解決、というわけでもありませんし、身体とこころとの関係はけっこう深いですから、いろいろな体調不良にも繋がります。
最近のわたしの口癖は、「家族も他人」です。
さあ、みなさんご唱和ください。せーの。
「家族も他人!」
そんな冷たいことを、とおっしゃる方もあるでしょうけれど、ちょっとお待ちくださいませ。
以前から何度か書いていますが「課題の分離」というテーマがあります。家族であっても、親の課題は親の課題。子どもの課題は子どもの課題で、親のものではありません。そこに勝手に手を出したり、口を出したりするのは、それはやってはいけないことです。
なんなら、不偸盗戒にひっかかりますので、カルマが積み重なります。
不偸盗戒と課題の分離のはなしはこちら
そして、「子どもが思ったように動かない」とイライラするなら、今度は「不瞋恚戒」に抵触して、さらにカルマが積み重なります…。
まずは自他の境界線をきっちりと明確にすることが大事なのかもしれません。
もともと、母と子どもは一体でした。胎盤は子宮の内側にくっついた状態で、それは胎児の臍に繋がるわけです。
こころが生まれるのは「この繋がりが切れるからだ」と、とある先生がおっしゃっていた、と聞きました。繋がっていたものが切れて、かつてわたしだったものが、他者になる、という喪失感が、ひとのこころを作り上げるのかもしれません。
そういえば、どこかの神話だったかに、「ひとは昔、今の二人分でひとりだった」という話が書いてあったのを読んだ記憶があります。手が4本、足も4本のヒトは、とても能力が高く、神の領域を侵しそうになったために、神がそれを切り離していまの形にしたのだとか、ひとはだから、喪われた片割れを求め続けるのだとか。
臍の緒を切り離されたこどもは、それでも、しばらくは母児一体の関わりの中で育っていきます。子どもの成長発育とともに、少しずつ、母親という存在が「別の個体である」という関係性と認識になってゆくわけです。
ところで、子どもが生まれると親はたいてい「この子が元気でいてくれさえすれば、それ以外はなにも望まない」って思います。
なにも望まない…はずなのですが、それでも元気で成長発育してくると、少しずつ、望みが増えてきます。
這えば立て。立てば歩めの親心。っていうのは、まさにそういう気持ちになるわけですから。そのうち、子どもが優秀であって欲しいとか、親が希望する「良い学校」に進学して欲しいとか、どんどん期待も親の願望も育って肥大してゆくことがあります。
とはいえ、子どもは子どものあり方と個があります。親子であっても、お互いの希望や才能がぴったり合うことは、極めて稀なことです。「あなたの幸せを思って」などというセリフもしばしば動員されますが、うっかり自他の境界を侵してはなりません。子ども自身のあり方と、個人の希望を、ぜひ尊重していただきたい。
なかなか、そこが難しい親子関係というのを時々みかけます。親が、自分自身の願望を、子どもに背負わせてしまっていたり、幼いころから、そうした願望を背負うことが「当たり前」になってしまった結果として、子ども自身が、自分自身の希望や意志を見失ってしまった場合とか。あるいは、子どもに与えられた課題を、親が先回りして、代わりに解決してしまっている場合とか。
個の境界が曖昧なままでも、それなりに生活がまわることもあります。が、そのような生き方は、お互いのカルマを積み上げることになっているでしょうし、やはりどこかで破綻します。
家族の運営の話で言うなら、なぜ母親ばかりが家の用事をしなければならないのか?というような話にもなったりします。
おウチのお母さん…って夫でさえが「おかあさん」って呼んでいたりすることもしばしばですよねえ。日本の家庭って不思議なところがあります…が、全部面倒を見る、っていうのも、奇妙な話です。
ここで課題の分離の話を持ち込むと、やっぱり家族のメンバーとはいえ、子どもの課題を親が代わりに解くのは、不偸盗戒にひっかかります。
わざわざくたびれ儲けしているところに加えて、カルマも増量されるわけですから、何の罰ゲーム?ってことになります。
どうぞ、上手に境界線を引いていただけますよう、お願いを申し上げます。
もう一度。皆様ご唱和ください。せーの。
「家族も他人!」