感情を我慢すると…?

『アラビアンナイト』は、『千一夜物語』とも呼ばれます。人間不信になって、妻をめとっては翌朝に斬り殺す、という物騒なことを繰り返していた王さまに、困った大臣が、娘シェヘラザードに相談し、彼女を王の妻とします。彼女は希代のストーリーテラーでした。夜な夜な王にお話をかたり「この話の続きはまた明日の夜に」とか「これよりももっと面白い話があるのです」などという引きを繰り返しつつ、1001夜を過ごす、という枠組みの中に、様々な物語が含まれる、という構成になっています。1000夜ですから、3年以上そのようなことを続けていた、ということになります。全体としては、物語を聞き、ひとの営みや人々の心のあり方の見聞を広めた王さまが、人間不信を解消して、そのまま彼女を妻として遇するようになる、という形の結末が待っています。
「アラジンと魔法のランプ」という物語がこの中にあります。有名な物語ですが、どうやらこのアラビアンナイトの原典には収載されていない、なんていう話もあります。翻訳や翻案がされているあいだに、誰かが類似の物語を作って編入した、ということなのでしょうか。とはいえ、『アラビアンナイト』と言えば「魔法のランプ」とされるくらいには有名です。
ディズニーの映画にもなりましたので、ランプから出てきた青色の魔神(あるいはランプの精)「ジーニー」をご存知の方も多いでしょう。

ランプをこすると、魔神があらわれて、ランプをこすった主の願いを叶える…と、そういう立て付けです。
長々と物語の紹介をしたのは、この魔神が、「感情」によく似ている、と思ったからです。
わたしの学んだアドラー心理学の中では、感情というものは、「結果」として引き起こされるものとは考えません。
むしろ、感情を使って、何かを実現するための「手段」であると考えます。
その証拠に、たとえば、CODA(Children Of Deaf Adults)と呼ばれる、聴覚障害者のもとに生まれた赤ちゃんは、お母さんの顔が自分の方を向いている、ということを確認してから泣き始めます。
本当に感情が「結果」でしかないならば、不快なことが続いているあいだ、ずっと泣き続けたら良い話ですけれど、そうじゃない。ゼロ歳児ですら、「効率の良い」形で感情を「使う」わけです。
そんな「使う」ための感情ですが、ランプをこすって召喚する魔神のようなものだと考えてください。召喚して、それが実力を発揮すると、願いが叶う、というわけです。
ところで、感情の話については、たとえば「怒ってはならない」という教えが、これもまた同じ精神科医の師匠から聞いた「秘伝」でした。
もちろん、その時に言われたのは、イラッとしたり、カーッとしたりした感情を、我慢して呑み込む、というのとは違うのだ、ということでした。
感情を呑み込んで、出さないようにする、ということは、社会性の発揮とともに増えてくることになります。
我慢すれば、なんとかなる、という思いでいらっしゃる方もあるかもしれません。
が、そもそも感情が「使う」ための道具ないし手段であるなら、それを召喚した人は、どこかの点で「使おう」と決心した、ということになります。
ランプの魔神を呼び出すのと、似たようなことをしているわけです。
で、魔神が出てきた!というタイミングで「なんで出てきた!目立たないように、どこか小さくなって隠れておいてくれ!」というような無茶を言っているようにも見えます。
力を発揮するためには、そりゃ見える場所でなければならないでしょうに…。
と、感情を出しておきながら、呑み込む、というところには、魔神を召喚しつつ、押し入れに押し込める、というような矛盾がちりばめられていると言えるでしょう。
自動車の運転をしつつ、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような状態です。
ひとは、こういう矛盾になかなか耐えられないのだろう、と思います。
ですから、こういう矛盾を抱え続けると、体調がわるくなりがちです。どうか、くれぐれも、怒らないようにする、ということと、我慢して外に出さないようにする、ということは別のステップの行為である、ということをご理解いただきたいところです。
そして、くれぐれも、怒りを上手にはらっていただき、怒りの炎で身を焦がすことが無いように、と祈ってやみません。