症状は警報音

診療をやっていると、しばしば、患者さんが「以前はこの薬で治ったのですが…」という言い方をされる場面に出会います。

以前は効いた、というその薬ですが、以前とはそもそも病状が異なる、ということもあります。症状は同じようであっても、その症状が起こってくる経緯が違っている場合は、そのような処方の変更で改善されることもあります。

ところが、そうじゃない方も時々おられます。

難しい病態になっておられると、どの薬を使っても、多少はマシになる、けれど、しばらくすると、その薬の効果が感じられなくなる…。

そんなことになると、薬でなんとかしよう、という医者の姿勢そのものから見直さなければならない、なんてこともあったりします。

そういえば、ボディートークの増田明氏は、昔「症状は警報音だ」と言っていました。つまり、どこかで火が燃え上がっているから、火災報知器のベルが鳴っている、というのです。それを、ベルの音だけを止めても、根本的な解決にはなりません。

身体に出ている症状を、ヒトの身体が出している「サイン」だと考えるのであれば、その「サイン」を消した場合、次に起こる出来事は、きっと、「より大きなサイン」になる、ということが想像できます。

同じ症状が繰り返し、さらに強くなって出てくるか、あるいは、別の(もっとつらい)症状が出てくるかのどちらか、ということになりそうです。

それを、さらに強い薬で「見なかったこと」にしているならば、身体はどこかで「諦める」のかもしれません。その諦めが積み重なると、いずれは「生きていくこと」に対する諦めすらも含まれてしまいかねません。

であれば、健全に生きてゆくことを目指す場合には、症状を引き起こす「原因」になんとか対処せねばならない、ということなのかも知れません。

もちろん、ほどほどの症状と上手いこと付き合いながら…という生活もあります。

たとえば、無理をすると動悸が出る、という方の場合は、その動悸が出たところで、今の仕事を少しセーブして、ゆっくり休養を取っていただく、ということで対処ができる、ということもあるかも知れません。

そのようなご提案を重ねるほどに、やはり、漢方の診療は、生薬とか、その組み合わせには留まらないよなあ…と感じることが多くなります。

ひっきょう、ブログに書く話題が「この症状にはこの薬」というような話から離れて、人生訓みたいになってしまう、というのは、良いのか、悪いのか…。

他の漢方専門の先生方がどのように診療されているのか、を、つぶさに拝見したわけではありませんが、わたしの漢方の師匠は、「ひとは、外から与えられたものでは良くならない」とわたしに教えてくださいました。

いちばん最初の「師匠」のこと

医者になるための教育訓練、っていうのは、まずは医学部の学部教育があります。それから、「卒後教育」って呼ばれる臨床研修の制度や、その先の自己研鑽が様々に含まれま…

つまり、漢方薬も、その他の薬も、ひとまず、現状の症状をいったん落ち着けて、時間を稼ぐ方法にはなり得ますが、決して根本的な解決ではない、ということ。

根本的な解決は、ご本人の生き方の中にしか見つからないのではないか、と思います。