道路掃除夫ベッポのことば(『モモ』より)

以前、『モモ』という児童書をご紹介しました。主人公の「モモ」は、じっと耳を傾け、ひとの話を聞くことが得意です。まるで、凄腕のカウンセラーのようです。
そんな彼女には、二人の、対照的な親友がいました。
「無口なおじいさんとおしゃべりな若もの」
二人の親友のうちのひとり、道路掃除夫のベッポは、思慮深い、というか、じっくりものを考えてから口にするタイプの、寡黙なおじいさんです。その無口な彼も、特上の聞き手であるモモの横でなら、それなりに長い言葉を語ることがあります。
「なあ、モモ、」と彼はたとえばこんなふうに始めます。「とっても長い道路をうけもつことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
彼はしばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ。」
ここで彼はしばらく考え込みます。それからやおらさきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ。つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
またひとやすみして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまたまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」彼はひとりうなずいて、こうむすびます。「これがだいじなんだ。」
(『モモ』ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 岩波書店)
先を見て慌てるのではなくて、今ここの一歩、ひと呼吸、ひと掃き、を大事にすること。そして、この今のプロセスを楽しむこと。
ボディートークの師匠は、わたしが「五十肩の根っこ」と呼んでいた、肩甲骨中央付近のシコリを「アセリのシコリ」と呼んでいました。身体が次の動きを準備するときの起点として、上腕をねじるような動きが重要になるようですが、この棘下筋とか、小円筋の部分の緊張が出てきます。彼は「食事中にご飯を口に入れているタイミングで、次に食べるおかずをどれにしようか、と目で探し始めている」というたとえをしばしば使っていました。それだけでも既に気持ちは「今」からはずれて、その先にあります。こういう心理状態を「アセリ」と呼ぶ、と言っていました。
実際、仕事に追われている、締切に追われていると、この部分の緊張はつよくなりがちです。最近はスマホなどの、「親指の酷使」でも似たような緊張を引き起こすようですが。
どうしても次々と先のことを考えてしまう、ということもありますが、そういうときには、この道路掃除夫ベッポのことばを思い出します。今を丁寧に生きること。いまは今しかないのだから。そうすれば、結果はきっと、あとからついてくる、と思っています。
今を大事に生きることの繰り返しが、日々を充実させると思います。
そんな日々を過ごしてゆきたいものです。