自他の弁別

わたしはわたし、あなたはあなた。
…でも、それが難しいわけです。たぶん、日本人は、あまり「個」というものを際立たせてこなかったから。
欧米は?って聞くと、きっと欧米は、神との関係で、「個人」というのが成立していたような気がします。このあたり、詳しくは『生成と消滅の精神史』という本でわたしは勉強中です。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163916378
個人、という存在が、個人として世界と対峙する、ってけっこう大変なことです。だからニーチェが「神は死んだ」って言った時、あるいは言わざるを得ない思考にたどり着いた時に、本当にショックだったのでしょう。
神に認められたことで、個人として、立って、世界に対峙する…というのと、神がいなくなった世界で、個人として立って、世界と向き合う、というのは、ぜんぜん違う次元の話になるのだそうです。
言ってみたら「神様が9割くらい肩代わりしてくれると思ってたのに!」みたいな感じなんでしょうかしら?
わたしはわたし…と言いたいところですが、生まれてくるまでは、わたしは、臍の緒を通じて、母と繋がっています。
生まれてきたところで、臍の緒が切れるわけですが、どこか、その残留思念みたいなものが、母のもとまで繋がっているような気がします。
そうして、しばらく、母の胸元に抱かれつつ、育ってくるわけですが、この時は「母子」で1つの単位になります。母と子どもは、分かれたんだけれど、分かれていない、みたいな状態です。
うっかりすると、母親の方が、その「分かれたんだけれど」の部分を否定したがったりします。
子どもの方も、「分かれていない」を選びたがることだってあります。
そうして、何もかもにきっちり線がひけないような状態になると…
これが面倒くさい話になるわけです。
自他の弁別がきっちりつけられるような、お行儀の良い親だけではありません。
「親」っていうと、ずいぶんと大きな存在に見えますが、まあ、たかだかアラフォーにもなっていないような、若い人たちですから…。
母子の蜜月を過ぎたら、そこから時間をかけて、肌を離して、手を離して、目を離して…と離れていくわけです。
で、そのうち、あなたはあなた、わたしはわたし、の線を引いていただきたい。
これをきっちり出来ないと、お互いにお互いの悪影響で病むことがあります。
この線を引くことを「冷たい」と感じるあなた。
きっと、どこかで、線を踏み込むことが愛情だと勘違いさせられてきたのではないか、と思います。
そんな愛情のことを、ユングは「元型的母」として描いています。
何もかもを呑み込んで行く、そういう破壊力を持った存在として。
母が何もかも呑み込んだら、残るものは混沌だけになります。
混沌が悪いわけではありませんが、混沌から抜け出した個であることを、地球の人類は選んだわけです。それが今世の修行になるわけです。
混沌に戻るのであれば、今世の修行にはなりませんし、だったらわざわざ地球に生まれてくる必要もありません。
いったん、自分の境界線をきっちり引いてみる、それだけで世界が変わることだってあります。
しっかり、じぶんは自分、他人は他人(家族も他人ですよ)をしっかりしてみてください。
そして、その上で、共同体として、一緒になにかをやっていく、というような「共同する」っていうのがあります。これは、現代では、個が立ち上がった、その次、ということになります。