うらないのはなし-2
昨日、うらないのはなしについて少し書きました。
そうした占いと一緒…とは言いづらいのですが、アドラー心理学を日本に導入した、野田俊作氏が、「神のお告げ」というゲームをなさっていた、という文章をご紹介します。
氏の日記は、現在、アドラー心理学に関する団体がアーカイブとして公開しておられます。(「野田俊作の補正項」ご案内)
午後からはちょっと息抜きで、「神のお告げ」というゲームをした。預言者役を決めて、この人に、現実に困っていることについてお伺いを立てると、むちゃくちゃな答えをくれる。それがどういう意味か読み解くうちに、問題が解決していく。このごろ「アドラー・カード」だの「パセージ・カード」だのといって、アドラー心理学関係の名言を印刷したカードを使うセッションが流行っているみたいなのだが、原理的には私の「神のお告げ」と同じことで、抽象図形に自分の心を投影しているロールシャッハ・テストのようなものだと思っている。むしろ図形が抽象的であればあるほど、水平思考が起こりやすくて、いい答が出ると思う。ただし、そのためには、「お告げの中に必ず答えがある」というフレームワークがないとダメだが。
ときどきグループ・ワークでやるゲームに、こんなのがある。2人組になって、ひとりが預言者、もうひとりが信者になる。信者がなにかを相談すると、預言者は、その相談内容とはまったく関係のないお告げをする。たとえば「夫が冷たくて困っています」という信者にたいして、預言者は「カラスは木にとまっているとはかぎらない」というようなことを答える。信者はそのお告げと相談内容との関連を考えて、自分で答えを探す。アドラーの言葉などを書いたカードも、本質的にはこれと違いはない。ナンセンスな刺激でもって水平思考を活発化させているだけで、信者がアドラー心理学を学んでおればアドラー心理学的な答えに到達するかもしれないが、学んでいなければけっして到達しない。なかには、「それでも救われればいいじゃないの」という人もいるが、アドラー心理学を教える立場にある人がそういうことを言ってはいけない。
ゲームのルールはこういうもののようです。
1)信者役と預言者役を決める。
2)信者役のひとが何か相談をする。
3)預言者役の人は「まったく関係のないお告げ」をする。
4)「お告げの中に必ず答えがある」というルールなので、信者役のひとはそのお告げの言葉を一生懸命に考える。
5)(これをどこで読んだか、ちょっと思い出せないのですが)信者役のひとが、どうしても解決のアイデアにたどり着かない場合は、もう一度「お告げ」をいただくことができる。
6)なんらかの形で、信者役のひとは、相談事についての解決アイデアにたどり着く。
という形です。
このとき、「お告げのことば」そのものには、あまり意味が無いのだ、と野田氏は書いておられます。それよりも「水平思考を活発化させる」という、視野を広げることが効果に影響しているのだ、というのが、このゲームの「仕掛け」なのだ、ということだそうです。
現状に直面して、視野が狭くなっていた時に、こうした「謎」を思考の中に組み込む努力をすることで、視野が広がって、解決につながる思考が発展する、ということなのだろうと思います。
うらないとか、お告げという言葉は、ですから、関係性の中に浮かび上がってきているのかもしれません。
身体を読み解く、とか、暦を読み解く、というのは、ある程度、誰が読み解いても同じような結果になる…と言いたいところですが、その「象徴」のどの部分を重視するのか、ということによって、解釈の差が出てくるとも言えます。星占いにもいろいろあって、誰の星占いを見るか、というところが違う、というのも、まあ、そうした解釈と表現の差によるのかもしれません。
「神のお告げ」ゲームでは、「預言者役」の人の言葉(謎かけかもしれません)を一生懸命考える、という行為自体が、解決のいとぐちをつかむための方法だ、としてありますから、こういうゲームの枠組みが無いところで、メッセージだけ受け取る、というのは、メッセージの重みが違ってくるでしょう。そのメッセージを拾って、なんとか自分で…というには、いろいろと難しい道のりがあるようにも思われます。
カードやおみくじ、あるいは易の占いなんかは、その場で出てくる「象徴」をどのように解釈するか?という話になりますから、ますます、占うひとと、占われるひととの関係性が強調される、ということになるのでしょうか。
人相見という話になると、水野南北、という有名な人相見が江戸時代にいらっしゃったのだとか。
『だまってすわれば』という伝記が小説風に残っていました。
医者は人相見ができなければならない、なんていう時代もあったようです。医者ができることが限られていたような時代は、患者の人相に「死」のかげがあるなら、なるべく近寄らない、というのが名医として必要だった、ということのようです。
今でも水野南北の観相術『南北相法』は、出版されています。わたしも持っているのですが、なかなか、読んでみてもよくわからないことが多かったりします。「顔のどこそこが青いと云々」みたいな話があるのですが、青い?どこが青く見えるわけ?みたいな話になります。何か、経験的なものとして断絶があるのかもしれないですが、ちょっとこれもよくわからなかったりします。

わからないところに、でも、それが何かの意味があるのだ…と思って四苦八苦してみると、見えてくるものがある、ということ、なのでしょうか。
そういえば、禅問答も、そんな雰囲気がありますねえ…。













