きれいは汚い、汚いはきれい
シェイクスピアの戯曲、『マクベス』の冒頭部分、魔女のセリフ、なのだそうです。わたしは多分、手塚治虫のマンガの中で、その引用というか、オマージュ的なものを読んで、このセリフを知ったのだと思います。
もともとの英語は
と続くのだそうで、「良いことは悪いこと、悪いことは良いこと」などとも訳することができるのだそうです。
昨日は易経の話をしました。
易の思想では、陰が極まると陽に転換し、陽が極まると陰に転換します。そういう陰陽の消長とは多少意味が異なるのかもしれませんが、価値というものは、同一の軸の上で、容易に逆転することがあり得る、と謳っているのだろうか、と思います。
日本の茶道などは「わび」「さび」を美しいとしていますが、みすぼらしいようなもの、という評価を受けてしまいそうなところに美を見出した、とされています。これもまた「きたないはきれい」の1つのあらわれ、なのかもしれません。
ちょっと話は変わりますが、健康診断の業務に接していると、わりと「白衣高血圧なんです」という方にお目にかかることがあります。健診の会場で血圧を測ると、とても高くていらっしゃる。まして採血がその先に待っていますから、いやが上にも緊張する、という方も多いように思います。健診の結果は、今日ここで測定した数値をお返しするわけですから、どうしても「血圧が高いです。なんとかしましょう」というような注意書きが、健診のたびにやってくる、ということになります。
血圧が高いことは「悪いこと」なのか?っていう話をしたいのでした。
良いことは悪いこと、悪いことは良いこと。
どうして緊張すると血圧があがるのか、を考えると、これまた、ずいぶんと人類の歴史を遡るのですが、緊急事態には、自分の身体の中をしっかり血液が巡ることが大事です。マンモスに追いかけられそうになったときには、頑張って、走って逃げたいわけで、「いやいや、あと5分、布団の中に居させて…」なんてノンビリしたことを言っていては、生き残れません。そういう時代と世の中で、緊急事態に対して、さっと血圧を上げて、身体が動くようにする、というのは、生き残るためにも大事な才能だったに違いありません。
今の世の中では、やや高コストで、かつ、出番の少ない才能になってしまいましたが、今後、いつなんどき、また緊急事態に対応せねばならない時代がくるかも分かりません。そうなれば、再び必要になってくるわけです。
そのように、自分が生き残るために選んできた自分自身の「支え」ですが、時と場合によっては、今はあまり必要ないよね…なんていうことも、出てきたりします。
お釈迦様も
川を渡る時には筏が大事だけれど、川を渡り終えたら、その筏はそこに置いて行きなさい
ということをおっしゃっているそうです。ついつい、次にまた、川があったときのために、と、筏を持っていきたくなるのですが。
ひとの心の話になると、そういう支えや、筏のようなものを、頑張って持ってくることがしばしば、になったりします。
ですが、自分自身が成長したことで、その支えや筏に相当するものを、そろそろ必要としない、なんていうことだって、よくあります。むしろ、その支えにしがみついたり、筏を引きずって歩いたり、していることが、体力を消耗する理由になっている、ということもあります。
「だから、支えも筏も、持ち続けるのは悪いことなのだ」とは申しません。やっぱり、今まで頼りにしてきたものを手放すのは、それは本当に心細いですから。とはいえ、持ち続けるのに、コストがかかることだってあります。コストを承知で持ち続けることが、自分の気持ちを安定させるために必要なこともあるでしょう。
そのうち、本当に「必要なくなったねえ」と、感謝とともに手放せるようになれば、身体も軽くなる、と思いますが、今すぐ、でなくって良いのです。安心して手放せるようになる状況を組み立てていくことが、まずは大事なのですから。
そういうことのお手伝いに、漢方やわたしの診療がお役に立てたら良いな、って最近思っています。