できることとできないこと

昔、ほかの病気の治療をなさっている途中の方が、「倦怠感がある」ということで、ご相談にいらっしゃったことがありました。

「倦怠感ですね…。たしかに漢方が役に立ちそうです…」ということで漢方薬の処方箋を準備した、のですが、もとの診療をなさっている先生から電話がありました。「今、新しい薬を使いはじめたところだから、その効果に影響が出そうなことは、いったん待って欲しい」という「お願い」の電話でした。

うーん…まあ、でも新しい薬の効果が8割から9割くらいは成功する…って話になっているらしいのですけれど、今、ここで、それほど急がない治療を重ねることで、せっかくの治療が全部、無意味になるのはやっぱりつらいですよねえ…って話をして、この患者さんには、「そちらの先生が、いったん、治療を終えてからで…っておっしゃってるので」と、出しかけた処方箋を引っ込ませていただいたことがあります。
そして、「そちらの治療が終わってから、またご相談させてください」と、そのような話にしました。

2ヶ月だったか、もうちょっとあったのか。いちおう、予定通りに終わったその治療のあとに、予約を取ってくださっていた、その方が、いらっしゃいました。
さて。前回は「倦怠感」っておっしゃってましたけれど…?って尋ねたら、「あれはもう、解消して、今はありません!」って話でした。

漢方が役に立つ場面、というのもありますし、漢方薬「しか」無いのなら、それでなんとか結果を出す、ということをしなければならない場面もある、のかもしれません。
漢方の出番が無いことだって、あるわけです。

他の漢方医の先生で、いろいろ患者さんの不調をお聞きして、なんとか治療しようとしたけれど、なかなか難しい。あるとき「やっと良くなった!」と喜んだら、義母さんが泊まりに来ていたのが、それが無くなったことで、すごく楽になられたから、ということが判明した、という話をされていた方もありました。

漢方は万能、っていうわけでも、ない、のです。どれだけ「元気になって、身体が軽くなる」としても、ヒトは空を飛べるようにはならないわけです。
「当たり前じゃないか」って思われるかもしれませんが、ヒトが空を飛べるようにならない、というのと同じような程度に、「治らない」病気もあります。

じゃあ、治らない、っていう時には、全てに絶望しなければならないのか?って言われると、そうじゃないこともあります。「多少は楽になる」ということくらいなら、できる場合もあるのかもしれません。

漢方の出番がない、ということもあります。出番がないのがいちばん良い、と言うことだってできます。病気でしんどい思いをされる方が、世の中に出てこなければ、医者は仕事がなくなりますが、そういうことなら、仕事がなくなるのが「理想」なわけです。

まあ、実際にそういう理想は滅多なことでは実現しないから、わたしたちの仕事があるわけですけれど。

そうした、どこまでは対処できて、どこからは難しいのか、何が実現できることで、何は無理なことなのか、ってあたりも、それぞれの診療の時にはお話できたら、と思います。

キリスト教徒の中には、ニーバーの祈り、というのがあります。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

これに倣って、臨床において、治療家としては、

治療できないものを受け入れる謙虚さと、
治療するべきものを治癒する能力と、
治療できないものと、治療するべきものを区別する賢さ、を

治療家としては持っておきたいですし、わたしもそう、医業の神様にお祈りすることにいたします。