わかっちゃいるけどやめられない

植木等さんの有名な「スーダラ節」では「分かっちゃいるけど やめられねぇ」ってなってますが、まあ世の中にはそういう事が山盛りあります。

わたしが東山紘久先生の講義を聴いていたときに、先生は「神経症っていうのはつまり…」ということで「わかっちゃいるけどやめられない」なのだ、とお話してくださいました。

当時わたしはまだ医学部の専門教育を受ける前でしたが、その後、精神科の講義を聞いてから、医学的には…という形の修正には至りませんでした。おおよそ一緒だったから、なのか、神経症の話をわたしが聴き逃がしたのか。あまり記憶に無いところを考えると、不真面目な学生だったのかもしれません。いまだに「神経症」って言われるとスーダラ節が頭の中をよぎります。

そういえば精神医学は、追試験を受けました。点数が悪かったのではなくて、試験の日程か何かの都合が悪くて、本試験を受けられなかった…のかもしれません。当時は作務衣を着て歩いていましたので、その格好のままで教授に追試験日程の相談の面会に行き、絶句されたりしたような覚えがあります。

閑話休題。

ひとさまの頭を拝見するようになると、いろいろと悩みごとを抱えておられることに気づきます。

ともすると、その悩みごとがグルグルと回っているようなこともあったりするみたいです。

とある方がグルグル悩むような思考について「シュトコー」と命名されていました。あたかも首都高速のように、同じ処をグルグルと、結構な速度で回っているような状況が生じるのだそうです。
首都高速なら、ちょこちょこと出口もありますから、さっさと降りてしまえば良い…となるのですが、これが「わかっちゃいるけどやめられない」からこそ、そのグルグル思考で疲弊してしまっても、なかなか対処ができない、という悩みになったりするわけです。

だんだん似たような処をグルグル回っていると、自動で回れるようになります。自動思考などと呼ばれるような形ですが、まあ、あまり便利なものではなくて、大抵は、不安だとか、自責の念だとか、そういうようなネガティブな感情を拾い上げていく思考です。

こういう自動思考が、頭の中の容量を喰っているのではないか、と思います。

上手いこと、この自動思考のスイッチを切れるなら、頭は軽くなるでしょうし、そうしたら頭痛もだいぶ減るのかも知れません。

なるほど理屈はわかった…けれど、どうやってやめたら良いのかわからない。結局やめられない、っていうところが、悩ましいところなんですけれど。

一部で「それは、本当には分かっていないからだ」という言い方をされる方があります。

つまり「わかる」にも段階があって、理屈がわかる、とか、説明ができる、というような段階から、わかった、ということを自分の日常の中に組み込むことができるとか、日々をその形で過ごしていくことができる、とか、ということになります。

わたしも精神科の師匠からの教えで「怒りをはらいなさい」というのを説明され、しばらく修行していました。やっぱりなかなか難しいこともあります。理屈は1時間も講義を聴けば「わかる」わけですが、実践が身につくには、数年かかったのではないか、と思います。

アルコールの依存症などになると、「お酒が身体にわるい」という知識は分かっていても、やはり飲酒を止められない、という方も結構いらっしゃるようです。

なかなか、途中で引き返す、という事ができる方は少なくて、「底付き体験」と言われますが、本当にボロボロになって、家族などにも見放される状況まで行き着くことで、やっと、禁酒の道を選ぶようになる…けれど、油断しているとすぐに飲酒をしてしまう、ということもあるそうで、いろいろと大変な道だなあ、と思います。

心配事とか悩みごととか、そういうもので頭をいっぱいにしているのは、頭の働きを邪魔しますし、あまりお薦めできる頭の使い方ではないのですが、それが分かっていても、それでも心配してしまう、というのがひとの性質なのかもしれません。

そこをなんとか、と言うのはやはり、それなりの修行になりそうだなあ、と思います。