コストパフォーマンス、という名前の罠

最近は、映画を早送りしながら見る人がいるらしい、って話が一部で盛り上がっていたそうです。そういう内容の本がありました。『映画を早送りで観る人たち』

わたしの個人的な感想としては、わたしが映画を見る、じゃなくて、原作を読む、ということをやってきた者ですから、そんなに急ぐなら、本を読んだら良いんじゃない?って思うのですけれど。本なら先を飛ばして結末だけ読む、ってこともできますし。でも、まあ、うーん。本のおしまいの部分だけ読んでも、それではわからないからこそ、一冊分の本が必要なわけでしょうし、ねえ。買う前に、書店で後書きから読む、なんてことはした記憶がありますが。

ひとまずは映画を見る方の話に戻りましょうか。映画を早送りしてご覧になる方のご意見では、映画をそのまま全部観るのは、コスパが悪い(…あるいはタイパ:タイムパフォーマンスが悪い、って言うようですが…)ってことになっているらしいです。そういえば、投資をテーマにした漫画で、とっても退屈な映画を見ておいで、って先輩に言われたのだけれど、途中で切り上げて出てくる、なんていう描写がありました。「損切りは早めに」というような話だったと思います。
これも、いろいろ賛否はある話になりそうです。なぜなら、名作と言われる作品の中には、冒頭がとても退屈で仕方ない、というのがけっこうある、らしいので。その先が名作になるか、それとも徹頭徹尾退屈な作品なのか、っていうのを、どこで判定するか、っていうのは、本当に難しそうです。

そういえば、わたし自身の体験として、リアルタイムの対談や講義を聞いている時には、待てる空白や沈黙、あるいは言葉の迂遠さが、録画録音になったとたんに、耐えられなくなって、早送りしたくなる、あるいは早回しで見たくなる、なんていうことがしばしばあります。最近は学会の講演が、オンデマンド配信されることも増えてきましたが、そういうものを聞いている時に、早送り、あるいは早回しで聞きたい、と思うことがあります。主催者側はきちんと聞いて欲しいわけですから、早送りや再生速度の変更なんて機能はつけていないことがほとんどですけれど。

そういう心持ちであれば、映画も早送りして見る、っていう理屈が成立するのかもしれません。忙しい世の中に生きている、ということを加味すると、たしかにその気持ちを、わからなくもありません。

最近の流行りで、ショート動画、なんていうのもSNSにはあふれていますが、こういう短い動画なんかでも、撮ったものをそのままで出しておられるわけではなくて、見ている側が飽きないように、かなりテンポが早かったりします。細かく動画を編集して、冗長な部分を切り詰めていたりするのだろうと思いますが、なかなか手間なんだろうなあ、と思います。そういう編集にかかる手間も、最近の動画編集だと、比較的、簡便になってきているのでしょうか…。

消費する側としては、テンポの良い動画が次々にあらわれますから、飽きることを知らないままにそれを享受していたら良い、という形になったのかもしれません。

発信が容易になった分だけ、世の中に出回る動画の時間も、数も増えている中で、時分の興味がある動画を「全部」見ようなどと思えば、とてつもない時間がかかるようになってしまったわけですから、手間暇をかけていられない、と、時間を惜しむようになるのも無理はないのでしょう。

一方で、生き物としての「ヒト」の身体に関することは、やはり、時間を早送りして、というわけにはいきません。胎児はざっと十月十日(実際には280日)は母親のお腹の中にいるわけですし、生まれてきた赤ちゃんが、大人になるまではゆうに10年以上の歳月がかかりますし、それを短縮することが良いとは言い切れません。むしろ、十全にその時間を大事に過ごすことがお薦めされると思います。
子育ての渦中では、なかなかそうは思えませんが、振り返ったときに、良い思い出になっていて欲しいですし、そういう日々を過ごしていただきたい、と思います。

文字に書いた「意味」を中心として、結論が正確に、早く伝われば良い、という物事も多いですから、そういう価値観も、仕事などでは特に、大事にされるべきものなのでしょうけれど、人生そのものの中では、単に結論に一直線でたどり着くのではなく、様々な紆余曲折を経て、最終的に結論に到達するまでの「経過」とか「経験」といったものを大事にする、という価値の方が重要なのかもしれない、と思うこともしばしばあります。

そういう、経験を中心とした価値観を大事にして、日々の生活の「いま、ここ」を大事にしていただきたいと、切に願っております。