ナラティブとエビデンスのこと
いちじき、医療の界隈では、エビデンスベーストメディスン、あるいはEBMという言葉がよく口にされたり、耳にしたりするようになりました。
エビデンス、ですから、「根拠」ですね。根拠に基づく医療、っていうのが、EBMの日本語訳です。
まあ最近はもっぱらEBM、あるいは「エビデンスに基づく医療」なんていう言い方が多くなっているのかもしれません。エビデンス、っていう言葉が、翻訳されずに残っている部分が、特殊な意味合いを孕んでいるように感じられます。
この、エビデンスに基づく医療を推進していた、イギリスの家庭医の一部から、「ナラティブ」に基づく医療、という発言が飛び出してきたのでした。
『ナラティブ・ベイスト・メディスン』という本が日本で翻訳出版されたのが2001年ですから、もうかれこれ四半世紀も前のことになってしまいました。
当時、この原著を医学会総会だったかどこか、わりと大きな会で、河合隼雄先生がご紹介された、ということで話題になったそうです。じつは、たまたま、ご縁があって、この本の翻訳に携わることになりました。
で、その翻訳の準備をしている時に、エビデンス、と、ナラティブ、っていうのは、決してお互いにぶつかり合う主張ではなくて、それぞれ、大事にしている部分へのウェイトのかけ方がすこしだけ異なる、というような議論を重ねてきたのを覚えています。
エビデンス、っていうのは、まあ、とある薬をたくさんのひとが使った結果、多くの人が、それで症状が改善した、みたいな話になりますけれど、場合によっては、薬の望まない悪影響が出た、というひとだってあったりするわけです。
この薬を、じゃあ、似たような状況の方に使う時に、「この薬のエビデンスとしては…」って話をするわけですが、患者さんとしては、大人数のひとの結果を見て、自分も症状が改善した側に入りたい、と思う…場合と、薬の望まない悪影響が出た…という側に入る気がして、不安だ、っていう場合と、が、あるように思います。
そこから、今ここにいる患者さんと、じゃあどうする?使ってみる?って話は、ここは、医師と患者の二人の「物語」になってくるわけで、この部分を大事にしようね、って話が「ナラティブ」を重要視する、っていう姿勢です。
ある意味、「エビデンス」っていう、積み重ねてきた研究結果、というものは、いわば、「科学者が積み重ねてきた物語=ナラティブ」と言うこともできるわけです。
科学は、わりと、誰が、どこで、語っても、科学的真実が変容することはまあ、無い、ってことになっています。それが科学の良いところです。
ですが、人生を苦しんでいる真っ最中のひとを相手にして「ヒトっていうのは、だれしも、いずれは死ぬのよ」みたいな(科学的には正しい)話をしたとして、だれがそれに耳を傾けるか?ってことがあります。科学的に正しいことって、退屈ですし。
科学的に正しいこと、を、まあいちおうは視野に入れておいて、じゃあ、今ここのわたしたちは、ここで、どうするか?っていうところに、今、ここだけの物語が立ち上がるわけです。
そんな物語を大事にしたい、って思います。
医療にはブンガクが。物語が大事なのだ、と、わたしは考えています。