三方一両損

大岡越前守の裁判もので、「三方一両損」という話があります。
三両もの大金が入った財布を落として、気づかなかった男と、それを拾って届けようとした男が、「受け取れ!」「受け取れねえ!」と争った結果、奉行所のお世話になります。
大岡越前守が、お裁きに出てこられて「ここに一両足して四両にする。二人にそれぞれ二両ずつ受け取るように」と言い渡します。
黙って受け取れば三両まるまる手元に戻ったはずの落とし主も、受け取れない、と断られたときにそのまま自分の懐に入れたら三両入ってきたはずの拾い主も、それぞれ二両ずつになったから、一両損したのだ、と。
そして大岡さまも、自分の財布から一両出したから、一両損したのだ、というのが「三方一両損」です。
この話を聞いた時、おさなごころに、あれ?と思ったのでした。いまでも、あれ?と思っています。
大岡さまが、ここから一両取り上げて、奉行所の手を煩わせた手数料だ、として、残りの二両を、それぞれ一両ずつ分けて与えて、落とし主には「そもそも受け取るつもりが無かったところを一両得」拾い主には「そもそも全部届けるつもりだったところを一両得」で、三方一両得、ではあかんの?という。
いや、そもそも三両のお金がここにあるから争いになったわけで、なんなら二人とも受け取れない、というなら、わたしが引き受ける、で大岡さまが、没収したら良いんじゃないの?って思ってしまいます。
そんな昔話を思い出したのは、この大岡さばき、みたいなことをやっておられる方が、けっこういらっしゃるから。
つまり、「じぶん一人が我慢すれば世の中まるくおさまる」ということを日々、繰り返しておられる方のことです。
争いごとをやめてもらおう、という思いも、それはそれでとても大事なことです。あまり争いが多いと、共同体は不安定になりますので。だから、争いを減らしましょう、やめましょう、というのは、とても健全な主張になります。
ただし。
その時に、どうしても我慢する人が出てきたりすると、大変なことになります。
そういう我慢すれば良いや、という思いの積み重ねは、だんだん、自分自身のなにかを削っている。そんな気がします。
むしろ、介入したなら、手数料を取って、「三方一両得」くらいの解決方針を、目指していただくのが良いのではないか、とコッソリ考えております。