三砂ちづる先生のこと

三砂先生のお名前を拝見したのは、『オニババ化する女たち』の著作だったでしょうか、それとも内田樹氏との対談(『身体知ーー身体が教えてくれること』)だったでしょうか。

ともかく、当時、着物で過ごしておられる素敵な方がいらっしゃる、っていう話を聞いて、憧れて、会いたくて、あいたくて。ご縁を頂戴して、会いに伺ったのだったと思います。

その後、何度かお目にかかる機会を得て、本当にその度に目から鱗が落ちる思いをしたりしてきました。本当に、先生にお会いするたびに、何かしら背筋の伸びるような、あるいは「頑張ろう!」と思うような、そんなことがあったものでした。ありがたいことです。

さて、疫学の研究者であった、三砂先生ですが、おむつなし育児にたどり着いた時のことを、本の冒頭に書いておられました。

あるところで古い育児の本を見たら「子どものオムツは、2ヶ月でとりましょう」って書いてあった、というのです。

研究者でもあり、母児の健やかな成長にいろいろな思いを持っておられた先生は、その後、おむつなし育児について、の実験的な取り組みを記録されたそうで、その結果が今の本『おむつなし育児』として出版されるにいたった、ということだそうです。(画像はこの本の表紙です)

この本には、おむつなし育児の良い点をいっぱい書いてあって、かつ、その実践方法を、現代のお母さんの経験を交えて、書いてあります。

そういう意味では、この本を出版することじたいが、おむつなし育児を、「よいことである」と言っておられるわけです。
そんな本の中のコラムを読んだときに、わたしは、また大きなショックを受けました。ああ、そうだなあ、と思っことがありましたので、ぜひ、この部分をご紹介したいと思います。

ほんとうは、どちらでもよいのだ。この本は、なるほど、「おむつなし育児」を推奨している本であり、できるだけおむつの外で排泄させてあげましょう、早くおむつがとれたほうがよいですね、ということを書いてある本でもあるのだが、ほんとうはどちらでもよい。あなたとあなたの赤ちゃんがきげんよく、楽しく、ころげまわって、愉快に日常を暮らしているのならば。あなたが、赤ちゃんのやるいことすべてがかわいくて、もう、赤ちゃんといっしょにいることがただ幸せで、何も言うことがないならば。そうであるなら、おむつがはずれていようが、いまいが、たいしたことじゃないのである。

何らかの技術を採用することで、ひとが幸せになれるなら、それを選べば良いし、その技術を採用しないからといって、そのひとが幸せであるなら、それを選んだって、良い。

基準は、個人がどうであるか、であって、技術を採用する、しない、というところでは、ない、と断言されています。

そんなに分厚くない本ではありますが、それでも100ページを超える本の、8割を過ぎたところに、それまで、一生懸命、どうやっておむつをはずすのか、はずすとどんな良いことがあるのか、を書いてきた、その本に、あたかもその本の趣旨を否定するような文章が載っている、その衝撃は、ちょっと本当に言い表せないものでした。

でも、この本の趣旨は、「おむつなしで育児をしよう」っていう部分じゃなくて、「母と子どもが機嫌良く過ごすための試行錯誤をしましょう」という部分にある、ということだ、というのを、ここで強くおっしゃっているのだと思います。

つまり、ノウハウに振り回されてはいけない、と。

このスタンスは、とっても大事なことなのだと思います。

俗に「角を矯めて牛を殺す」と言いますが、角の形がちょっと変だから、と無理してその形を格好良い風に矯正しようとしている間に、牛が死んでしまったのでは、本末転倒なわけです。
時々、私たちは、手段と目的を取り違えます。
そういうときには、やはり、一歩引いて、本来の目的を確認することが大事なのかもしれない、と思うわけです。