他力本願

「他力本願」というのは、一般的には、ひとさまに頼り切って、自分自身でどうにかしようとしない態度、のことを言い表すような風潮があります。

辞書を調べてみました。

たりきほんがん ―ぐわん 【他力本願】
〔 →1が本義〕

① 〘仏〙 弥陀の本願の力に頼って成仏すること。

② 〔本来的な意味からはまちがった用法〕他人の力に頼って事をなすこと。

もともとは仏教用語だったようです。弥陀の本願となっていますが、これは阿弥陀経に出てくる阿弥陀如来…おっと、阿弥陀菩薩さまの「本願」に頼る、ということを意味する表現だったのだそうです。

阿弥陀さまは、ご自身の請願の中で、ご自分に帰依する(つまり、南無阿弥陀仏ととなえた)全てのひとを西方浄土に往生させるまでは如来にならずに、菩薩であり続ける、という誓いを立てられたのだそうです。

…と、同時に、その阿弥陀さまが「如来になられた」という世界がすでに成立しているのだ、と、仏教の世界では教えがあります。

つまり、「全ての人を救わねば如来にならない」とおっしゃっていた阿弥陀さまが、如来になっておられるのであれば、それは、つまり、全ての人が救われた、ということの証明になるのだ、という力業です。

すげえ。

このあたり、前後関係が微妙といえば微妙ですよねえ。だって、今生きているわたしたち、阿弥陀さまには、「まだ」救われてはいない、わけですから。

…ちょっとあやふやな記憶で書いてしまったので、調べてみました。

  • 第十八願「念仏往生の願(ねんぶつおうじょうのがん)」: 【四十八願の中で最も重要とされる、根本の願(王本願)】 「私が仏になるとき、すべての方角の衆生が、心から信じ喜び(至心信楽:ししんしんぎょう)、私の国に生まれたいと願い(欲生我国:よくしょうわこく)、わずか十回でも私の名を称えた(乃至十念:ないしじゅうねん)にも関わらず、もし生まれさせることができないようなら、私は仏にならない。(ただし、五逆の罪を犯し、仏法を謗る者は除く)」 → 阿弥陀仏を信じ、浄土へ生まれたいと願い、念仏を称える者は、必ず浄土へ往生させます、という、すべての人々に開かれた救済の核心を誓う。他力本願の教えの根拠となる願。
  • 第十九願「臨終来迎の願(りんじゅうらいごうのがん)」: 「私が仏になるとき、すべての方角の衆生が、悟りを求める心を起こし、様々な善行を積み、心から私の国に生まれたいと願うなら、その人の臨終の時には、必ず多くの聖者たちと共にその人の前に現れ、迎え取る。もしそうでなければ、仏にならない。」 → 善行を励む人が、臨終の際に阿弥陀仏や聖衆に迎えられることを誓う。(浄土真宗では、これは自力の心を方便的に導くための願と解釈されることが多い)
  • 第二十願「係念定生の願(けねんじょうしょうのがん)」: 「私が仏になるとき、すべての方角の衆生が、私の名を聞き、心を私の国に繋ぎとめ、様々な功徳を積み、心から願って私の国に生まれたいと思うなら、必ず目的を遂げさせます。もしそうでなければ、仏にならない。」 → 念仏以外の功徳によって往生しようとする者をも、最終的には方便として導き、必ず往生を遂げさせることを誓う。(これも浄土真宗では方便の願とされる)
阿弥陀仏の四十八願とは?その役割について | 浄土真宗 慈徳山 得蔵寺

阿弥陀仏の四十八願とは?全ての衆生を救うという仏の壮大な誓いを分かりやすく解説。その背景(法蔵菩薩)、主な内容(第十八願・念仏往生、極楽浄土など)、浄土真宗に…

こちらのサイトからお借りしました。第18請願、というのがなかなかにすごいようです。念仏を10回唱えたら、それで西方浄土に迎え入れます、って話ですからねえ。

この、阿弥陀さまに帰依します、という形で唱えるのが「なむあみだぶつ」なわけです。

で、この「なむあみだぶつ」と唱えることで、阿弥陀さまがお救いになってくださるのだとか、西方浄土に往生するように手配してくださるのだとか、あるいは、人生を終える時には、阿弥陀さまが、直々に金色の雲だったか、七色の雲にのって、お迎えに来てくださるのだとか。

その、阿弥陀さまの本願を、徹頭徹尾、真に受けて、その救済を待つためにお念仏を唱える、というのが、浄土宗や浄土真宗の実践、ということになります。

https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000202070 五木寛之氏がそんな本を出しておられました。

最近は「たりきほんがん」と言うと、自分自身では努力しないで、他人がなんとかやってくれることをあてこんだ態度、という意味が中心になっています。ずいぶんと仏教の世界で使われている時と違いますが…。
まあ、言葉っていうのは、わかりやすい使われ方をしてゆくものですから、仕方ないのでしょう。

こちらの「ひとさまをあてこんだ態度」というのは、これはこれで難しいところです。
自分でなにかをやり遂げる、というのであればまだしも、それも難しいところですが、他人を、自分が思ったように動かして、良い結果だけ自分で受け取る、というのは、本当に大変難しい話になります。

そもそも、自分自身であっても、自分の思ったように動くかどうか、はなはだ心許ないところで、他人を自分の思ったように動かそう、という姿勢が、不幸を呼び起こします。
そうすると、結構「腹が立つ」わけです。つまり、感情を使って、他人を動かそうとしはじめるわけです。

腹を立てる、というのは、仏教の教えのなかの「不瞋恚戒」に抵触します。まあ、そもそも、他人を自分の思いで動かそう、という態度が「不偸盗戒」に引っかかりそうですが…。
なかなか自分自身の人生を、きちんと自分人生として生きて来られなかったりすると、ひとさまの人生も大事にできなかったりするのかもしれません。

いずれにしても、こちらの「他力本願」では、ちょっと困ったことばかりが起きますので、どうぞくれぐれも、他力本願は、仏教の用語の意味の方だけにお願いしたいものです。