分からないものを、分かろうとするとき
「鳥だ!」「飛行機だ!」「いや、スーパーマンだ!」っていうセリフ回しがあります。
歴史的に有名なセリフになったと思いますが、なぜ、「鳥」とか「飛行機」が出てくるのでしょうか。
わたしたちは、知らない概念に出会った時、それを理解するために、ある種の「補助線」を無意識に引っ張ることになります。
その補助線の1つが「既知の似ているものにたとえる」という作業です。
つまり、空を飛んでいるもの…といえば、「鳥」であり、「飛行機」なわけです。
いったん、とりあえず「似ているもの」として考える、ということで、知的な負荷を軽減する…ということなのでしょう。
未知のものを、どのように落ち着けて、それを活用してゆくのか、という話をするときにさえ、類比の表現を使います。つまり「どのようにしてまな板の上に載せるのか」とか「どう料理するのか」というような表現を使ったりします。
きっちりと、対象化して、分析(切り刻む)ことが出来るように据え付ける、とか、その後、いろいろと加工して、「呑み込みやすく」する、という表現だったりします。
そういう意味ではたとえ話、というのはとても優秀です。
優秀であると同時に、似せてくるところに無理があるなら、その先の結論も、ひょっとすると無理があるのかもしれません。
『妻と帽子を間違えた男』とか、『イスとイヌの見分け方』とか、そういう「似ているようで、ちょっと違うもの」を「同じ」カテゴリに入れてしまった時のおかしさ、というのは、ある種の芸術にはなっても、理解、という意味においては、失敗した、と言えるのかもしれません。
数学者の森田真生氏が、以前、見たり、触れたりすることができない、「数式」を理解するにはどうするのか…?という話をしてくださったことがあります。
図形のような、目で見て直感的に理解できるもの、であれば、それはそれで、理解や把握に困らないわけです。「Oh, I see!」って言えば、「わかった!」って意味になるくらい、見える、ということと理解する、ということは直結しているのでしょう。
でも、見えないものを理解しようとするなら、別の方法が必要になります。
数学の場合は、それは「計算」になるのだ、と、森田氏は言っていました。計算を繰り返す中で、その手応えが得られるのだ、ということのようです。
わたしたちも、見えないものを理解するには、音を聞いてみるとか、触れてみる、とか、視覚以外の感覚を動員することになります。
感覚の話で言うなら、聴覚や触覚は、大脳新皮質に投射する神経線維があるので、わりと精密な言語化の可能性が高まります。一方で、嗅覚とか味覚は、どうしても新皮質にあまり投射しないものらしいので、もっと情動の方に反応が引っ張られるのだそうです。
たしかに、触覚を用いた言葉(点字)聴覚や視覚を用いた言葉はありますが、嗅覚や味覚を用いた言葉、というのは難しいのかもしれません。
計算という論理作業で得られた「手触り」は、やはり音、というよりは触覚に近い感覚なのかもしれません。
そして、ある種の理解、というのは「物語」として語られる形に結晶することもあります。
昔、コンピュータの黎明期に、いろいろと情報を入力すれば、あらゆることに答えを与えてくれる…と夢見た人たちがありました。そして、その時の究極のコンピュータが、理解を示したときに「そうだ。新しい話を思いついたのだけれど…」と物語るのだ、と、そのような話を書いておられたようなこともありました。
類比することで、理解が進むのであれば、それはまだ楽な話ではありますが、世の中、そんなに簡単に結論が出ない場合もあります。
類比するものと、同一でよいのか、それとも違うのか…違うとするならどのように違って、どこを調整するべきなのか…。
そういう判断が、すぐに出来るものだけではありません。
となると、瞬間的に結論が出ないことになります。
ある程度、この、「結論が出ないままであり続ける」ことに耐えられる必要があります。こうした「結論が出ない状態に耐えられる」体力のことを、内田樹氏は「知的肺活量」と呼びました。
いったん、結論が出ない間を、いわば「息を止めている」ような状態であると、したわけです。
最近は横文字が入って来ました。「ネガティブケイパビリティ」というのが、それに似ている概念のようです。
「分からないままであることを許容する」というような意味でしょうか。
同時に、わたしたちの心の動きとしては、「わかりたくない」という姿勢が出てくることもあります。自分に不都合なこと、直視したくないこと。そのようなことを突きつけられそうになったときには、防衛的に「わからない」という形で突っぱねることもあります。
これは未知のものとはまた別の取り扱いにはなりますが…。
それでも、分からないなりに、引き受けて、丸呑みしてみる、ということが必要になることもしばしばあります。
丸呑みしてみたら、ずいぶんと毒まんじゅうだった、ということだって、場合によってはあるのかもしれません。
それらを事前に見分けることができるのか?と聞かれると、これまた難しい話です。
どちらにしても「知らないこと」なわけですから。

旧約聖書の「失楽園」の物語では智慧の実を食べてしまったアダムとイブが、エデンの園を追い出される、ということになっています。
では、事前に智慧の実を食べたらどうなるか、を説明されていたとして、彼らはそれを理解できたでしょうか?
悪魔の化身であった、ヘビが誘惑した…という話になっていますが、智慧を身につけることを誘惑したのが悪魔だ、というのは、とても興味深い符合であるようにも思われます。