卵が先か、鶏が先か

ニワトリは、タマゴから生まれるわけですから、ニワトリよりも前にタマゴがあるわけです。だから卵が先なわけです。
ですが、タマゴは、ニワトリが産むわけですから、タマゴより前にニワトリがいるはずです。だから鶏が先、なんです。
そうは言っても、そのニワトリはじゃあ、どこから生まれてきたの?って話になったら、そりゃやっぱりタマゴから出てきたわけです。ってことはやっぱり卵が先、なんじゃないですか?
…って話をぐるぐるとまわるのが「卵と鶏」の話です。
最近の進化論では、鳥類っていうのは、恐竜の子孫ってことになっているらしいですね…。ティラノサウルスにも羽毛があったのかもしれない、みたいな話もありました。それはそれで、興味深い話になりますが。
進化論を厳密に言うなら、ニワトリ以前の存在があって、それが産卵しながら、少しずつ変化してきた、っていうことになるんでしょうか。それとも突然変異、ってことになるんでしょうか?
突然変異で、ある瞬間にニワトリが発生した、ということであれば、それはやっぱり「卵が先」だった可能性があります。とはいえ、概念としては、ニワトリという存在が明確になることが先、なのかもしれません…。あれ?やっぱり分からなくなってきたぞ…?
なんとなく、わたしたちは、「進化する」っていう言葉を、どんどん優れたものになっていく、というイメージで使っていることが多いように思います。ヒトも、どこかでもっと原始的な類人猿のグループから抜け出して、進化してきた、という言い方をしますし、なんなら、もっと遡って、単細胞生物から、多細胞生物に進化した、という話があります。
じゃあ…とここで考えてみましょう。
単細胞生物の中で、多細胞生物に「進化」することを選んだ個体は、単細胞生物の中で、「優れていた」のか、それとも「落ちこぼれ」だったのか?
そんなこと、考えたこともなかった…という方が多いかもしれません。
いや、ポケモンみたいなもので、「けいけんち」を貯めないと「しんか」ってできないんでしょ?だから、優秀な個体が進化しているんじゃないですか?って意見もあるでしょう。
本当にそうなんでしょうか?
単細胞生物のままで存在している彼らの方が「落ちこぼれ」なんでしょうか?
むしろ、進化せざるを得なかった、多細胞生物の方が、もともとは落ちこぼれだったんじゃないか、って、わたしはそういう視点の転換を、東山先生の講義で伺いました。
言われてみたらそういうこともあるのでしょう。今の状態に安住できるというのは、強い者の特権です。
変化し続けなければ生きていけない、という強迫に追いかけられるのは、どちらかというと「落ちこぼれ」の存在なのかもしれません。
もちろん、いろいろな事情での「落ちこぼれ」があるのだと思いますが、そういう見方をすると「霊長類」って、ヒトが自分たちのことを「万物の霊長」って名づけて、それをグループの名前にしていますが、ちょっと見方がかわりそうです。
「今までずっと落ちこぼれ続けた結果、進化を強いられてきた」という意味では、「落ちこぼれトーナメント」の勝者?とことん落ちこぼれてきた存在、ってことなのかも知れない、と思います。
まあ、落ちこぼれたとしても、それで、種としてはどんどん進化してきたわけですから、霊長なのは見当違いでもないのかもしれませんが。
蛇足ですが、似たような話がありました。
勝負事をやっているときの格言に「勝っている間は考えるな」というものがあるんだそうです。
なるほど?
思索が深まっている人というのは、つまり、どこかしらで、「負け」を積み重ねてきた、ということになるのかもしれません。
しっかりした思索をさらに積み重ねることで、進化してゆく道筋があると良いな、と思っています。