大数の法則

物理学というのは、とても厳密な学問で、天体の動きなんかは、もう、何年も、あるいは何千年も先の様子でさえ、計算ができるのだそうです。
ギリシアの時代に、すでに哲学者は天体の観察をしていたそうですし、地球が丸い、ということもご存知だったようですが、そんな知性を発揮する一方で、ギリシアの哲学者の中には、井戸に落ちて馬鹿にされた、という逸話が残っているひともいます。
プラトンが伝える有名な逸話に、夜空を見上げ天文の観察に夢中になるあまり、溝(あるいは穴)に落ちてしまった、というものがある。そばにいた女性(若い女性とも老婆とも言われる)に、「学者というものは遠い星のことはわかっても自分の足元のことはわからないのか」と笑われたと言う。
タレス、という名前の哲学者だったそうです。
「遠い星のことはわかっても自分の足元のことはわからないのか」というのは、大変示唆に富んだ指摘だと思います。
なかなか、自分の足もとのことは、わからない。もっと大きなものとか、もっと小さなものの方が観察しやすいし、動きが理解しやすい、というのがあるそうです。
さて。大数の法則と呼ばれる「法則…のようなもの」があります。
これは、たとえば、サイコロを振り続けると、だいたいどの目も出る割合が同じようになる、というような話で出てきます(まれにイカサマ用のサイコロがあって、明らかに結果に偏りがある、というときには、中に鉛が偏って仕込んであったりするらしいですが)。
サイコロなんだから、6面ならそれぞれ6分の1ずつでしょ。当たり前じゃない。って、算数を習ってきた私たちは思うのですが、大真面目にひとつのサイコロを振り続けると、ものによっては偏りがあったりする、というのも興味深い研究だったりします。
そんな大数の法則が、たとえば「ニューヨーク市で、1年の間に野犬に噛まれたひとの数」などというものにも、およそ当てはまるのだそうです。
もちろん、噛まれるひとも、噛む犬も、毎年違いそうですが、総計として、1年間で、というと、だいたい、毎年あまり変わらない数字が出てくるのだとか。
この数は多い、これではいけない、と市当局が野犬の捕獲・駆除に乗り出せば、数年の経過で減っていくかも知れませんし、逆に放置していると、少しずつ増えてくるのかも知れませんが。
科学というのは、だいたい、この「大数の法則」が成立するような範囲の話を考えている時は上手くいく、ということだと思います。
そして、この「大数の法則」として成立している「6面サイコロの目はどれも同じような頻度で出てくる…つまりそれぞれ6分の1ずつで出る」とか、「ニューヨーク市で野犬に噛まれるひとの数は毎年あまり変わらない」とか、そういう知見が、あらためて確認できる、というような状況を、「再現性がある」としているのだろうと思います。
ひとの話で言うなら、平均余命とか、平均寿命みたいなものも、大数の法則のような把握方法です。
あなた、や、わたし、といった、個別のひとりが、じゃあ、その平均寿命まで生きているのか?ってことは言えないけれど、もっと人数が多いと、その半数は平均寿命が来た時には生きている可能性が高い、っていうのが「科学」の言っていることです。
こうした「科学的な言説」と、「個人の物語」とは、場合によっては一致しますが、必ずしも一致しなくても良いわけです。
逆に、個人の実感が得られないところにも、統計的な話として、明らかになる事実、というものもあります。
「タバコを吸っていると、ガンが発生しやすい」という話は、当初、喫煙者の医師に否定されていました。今では割と多くの方がそれを「事実」であると考えるようになりましたが、じゃあ、実際に多い、って感じているのか?ってなると、ちょっと難しい話になります。
ガリレオが、イタリアのサイコロ賭博をやっているメンバーから、掛け金とオッズに関しての相談を受けた、という話があります。
3個のサイコロの目を足した数字でやる賭博で、「9」が出る確率と「10」が出る確率だと、どう考えても「10」が出る確率が多いのだけれど…という相談の手紙が残っているのだそうです。
いったい何回そのゲームをやったんでしょうねえ。確信を持つに至るだけの試行が積み重なったのだろうと思うと、本当に100回やそこらではどうしてもたどり着けない気がします(ここに理論的に裏付けを与えた、という話が残っているのですが)。
これも、理論的な裏付けもともかくですが、それを確認できるだけの大数の法則による経験があってこそ、の話であろうと思います。まんいち理論が、その体験を正当化出来なかった場合には、「そんな理論、現場で通ると思っているのか!?」ってお叱りがありそうです。
そんな科学の話題とは対照的に、臨床というのは、かなり個別の、ひとりひとりの事情が重要視されます。
見通しを立てるには、大数の法則で得られたような結果を参照するのですが、それが当てはまるかどうか、という部分がとても難しい。
だからこそ、未来予測があたったか、見当違いだったか、ということよりも、今の自分自身を納得できるかどうか、ということに焦点をあててゆきたい、と思うものです。