失楽園とヘビ

昨日は、智慧の木の実を食べたことで、エデンの園から「追い出された」とされるアダムとイブ、そして、その「追放」のきっかけとなった「へび」の話を少し書いたのでした。
この場面を、昔、「へび…悪魔…の善意」というテーマを軸に書いたことがあります。へび視点で、ひょっとしたらこういう話だったのかもしれない、という、にしむらの妄想です。
新しい仲間がうまれた。ニンゲンというらしい。オスとメス、それぞれ一体ずつ。神が作ったのだ。
ニンゲンには、智慧が与えられていなかった。
それは神の恩寵ということになっている。神は、かれらに、「智慧の木の実を食べること」を禁じたのだ。かれらは、なんの疑いもなく、それに従っている。しばらく観察をつづけていたが、ニンゲンは、本当に抜けている。今日も、他のけものが、意地悪をしているのに、その意地悪に気づかない。なんなら、ニコニコ喜んで、それを好意だと感じているのかもしれない。
他のけものは、毛皮に包まれているが、ニンゲンは毛皮を持っていない。あれでは、肌が傷んでしまうだろうに、かといって、何かで守るわけでもない。だんだん、わたしは悔しくなってきた。ニコニコ笑うだけで、そのままが幸せだ、なんて、いったい誰が決めたのだ。かれらの手は、もっと細かい仕事ができるような形になっている。必要なのは、智慧だけなのだ。智慧さえあれば、かれらは、自分たちの生活をもっとより良いものにしてゆくことが出来るだろうに…。
神は禁じたのだそうだが、わたしはそれを聞いていない。ニンゲンよ、この木の実を食べるのだ。そうすれば、あなたがたが、どれだけ劣悪な状態にあるのかを知り、改善のためにどうすれば良いかを見つけることが出来るだろう…。
つがいのままでは、説得がむずかしいか。ふむ。じゃあ、片方ずついこう。
「あー。そこのニンゲン。もうちょっと智慧をつけてみないかねえ?」
…うむ。手強い。なんでそんなにナイーブなままでいられるんだろうか…いや、そうだった、ニンゲンには智慧が無いからだ…ということは、別の方法で、誘わねばならないのだろうか…?「これを食べると、良いことが起こるのだよ。もっと長生きするようになって、永遠の命なども得られる(かもしれない)」
永遠の命?そりゃ、ニンゲンが頑張って、つけた智慧を働かせたら良いわけだからねえ。今の食生活、本当にひどいじゃないか。肉を食べるのだよ。ほら。横にけものがいるじゃないか。そうだ!そのとおり!とうとう食べた!やった!
これで、ニンゲン、あなたがたが、どれだけ劣悪な環境におかれていたか、それに気づかずにのほほんと過ごしていたか、がわかるだろう。
そして、それが分かったなら、もう二度と、あの無知蒙昧に戻りたくもないだろう。
もう一方が無知蒙昧であることすら、嫌悪の理由になるだろう。
あとは、どれだけでも説得して、智慧の木の実を、つがいに食べさせるだろう。ほら。オスがやってきた。顔つきがぜんぜん違うよなあ。智慧の木の実を食べたら、「キリリ」としただろう。そうそう。
あ。困惑した顔になった。そうなんだよ。きみたち、楽園に居るとでも思っていたの?決してそんなに良い場所じゃないんだよ。そうそう。お花畑はきみたちの頭の中だけだったのだぜ。
それを教えてあげた…というか、何度か教えてあげたんだけどなあ。ぜんぜん理解していなかったもんねえ。
だからちょっと強引な方法だったけれど、智慧の木の実を食べさせたんだよ。これで智慧が進んだら、げんじょう、しっかり把握できるようになるだろう。感謝は要らないよ。うん。ぜひ、その智慧をつかって、自分の身の回りを整えていってくれたまえ。
そうそう。寒いだろうし、ねえ。肌を何かで隠す…って、そこでイチジクの葉っぱ?え?それ?まあ、仕方ないかあ…そのうちに、何かもうちょっと良いものを見つけておくれ。頑張ってね、良い世界を作っていくのだよ…。
蛇足と思いつつ(蛇ですから!)解説すると、アダムとイブは「楽園を追い出された」のではなくて、智慧を得ることによって、今の自分たちが居る場所が「楽園ではなかった」ということに気づいた…という枠組みです。悪魔であるヘビは、ニンゲンが「楽園ではないことに気づかず、現状に満足している」という状況を不満に思っていたので、かれらを目覚めさせることに尽力します。これはヘビの「厚意」によるものでした。はたして、現実をありのままに認識するようになったニンゲンは、それで幸せになったのでしょうか。
最初から禁忌の木の実をそこに置かなければ、失楽園は起こらないわけですから、神は、この「楽園追放」さえも既定路線として組み込んでいたのかも知れません。自分で気づくのか、それとも、だれかがそそのかすのか、は別として、ですが。
なお、ヘビの厚意は、ある意味で「余計なお節介」に該当します。
このあたり、ひょっとすると、課題の分離の問題が大きく残りそうですし、その部分で神様から叱られた、ということなのかもしれません。
心理療法の中で「治療は、バラの園を約束するものではない」というような表現があります。むしろ、症状の中に埋没している方が、「楽」なことだってあり得るわけで、そこから出てきて現実対応をする、というのは、かなりいろいろと「しんどい」ことが起こります。
が、その「しんどい」ことを出来るようになっていく、ということ自体が「治療」であるのだ…と、そのような表現だった、と記憶しています。
それはある種の失楽園だ、と言えるのかも知れない、と、折に触れて思うことがあります。
知らぬが仏、という俚諺もありますが、どちらが「良い」のか、は難しいのかも知れません。







