帰納と演繹

帰納法、というのは「あれも、これも、同じように〇〇であった、だから…」という経験的な蓄積から原理を見出す方法、ということになっています。
数学の世界では「数学的帰納法」という名前で、この「帰納法」を用いた証明をする、というのがあります。
数学的帰納法は、数字を順番に全部…入れる、ということはやらないで、一番小さいところと、途中を文字の式で(数字がkの時に成り立つとして、k+1の時にも成立することを)証明する、という形で証明をする方法です。
まあ、自然数は無限にありますから、うっかり全部を計算して実証する、ということをやらずに済むのは幸いです。
ヒトが、世界を把握するときには、本来は、わりと帰納法的な思考をしていた、といえるかも知れません。
たとえは「自動車」という概念を獲得するためには「あれも自動車」「これも自動車」と別のものを見て、それでも共通する概念をそこから抽出するわけです。
で、「自動車というもの」を概念として成立させるわけですから、これは帰納法的な行動なのだろうと思います。
生活の中で覚えたものは、こういう、帰納法的な形で身につくもの、と言えるでしょう。
一方で、演繹法とは、先に原理があります。
原理があるからこそ、その先に結論を見出すことができる、というのが演繹法です。
じゃあ、この「先にある原理」というのを、どこで「身につける」のか?
たいていは、誰かに習うわけでしょうけれど、じゃあ教えてくださった方は、どこでその原理を身につけたのでしょうか?ずーっと遡ると、どこかで「発見」した方があって、その方は、きっと帰納法的な形でその原理を見つけられた、のではなかろうか、と思います。
もちろん、一部で極めて特殊な認識を持っておられる方が、見ただけで理解できる、なんていうこともありますから、全ての方が帰納法を発揮されたわけではないのかもしれませんが。
演繹法の良いところは、結論が出ている、というところにあります。現場にその演繹が適用できるのであれば、結論は間違いがないこと。それに比べると、帰納法的な理解とその先の応用はとっても手間がかかります。
じゃあ、帰納法は無駄なのか?という話になりそうです。
が、そうではありません。
原理を自分自身で見出す、ということが、やはりひとりひとりの発見として必要なのだろうと思います。
「車輪の再発明」という言葉がしばしば言われます。いちいち、個人がゼロから発明を繰り返す世界では、発展もあまり望めません。もっと、便利な道具やアイデアを共有すれば、その先が近づくわけです。手間も省けるじゃないですか。
ちょっと前の話ですが、数学をひとりで研究されている方が喜び勇んでご自身の発見を報告された…のですが、それは「連立方程式の解法」だったのだそうです。
それは、すでに中学生が習い覚えている内容でした。
それでも、この独立して研究されていた方には、一大発見であったわけです。
歴史的には極めて「時間の無駄」であったと言われてしまいそうな、その発見を、しかし、自分でできた、ということは、個人的には大きな喜びとしてあらわれたのではないか、と思います(であるからこそ、大きく発表されたのでしょう)。
手間暇のかかる帰納法的な発見を、しかし、ひとりひとりが、何らかの形で維持するからこそ、学ぶ、ということの喜びがそこに残るのだろうと思います。
このことと、教育課程を無駄にしない、ということとのあいだのせめぎ合いが、いつも難しいなあ、と、勝手にそんなことを考えているところです。