災難をのがれる妙法

ちょっと、季節はずれの話題からはじめますが、毎年8月の16日には、京都市内で「送り火」が焚かれます。
東山に、ひときわ大きい「大文字」の他に、西の方の「舟形」とか、「鳥居」などに加えて、北山には、「妙」「法」という字が浮かび上がります。

この「妙法」ってのは、「うまい方法」という意味で用いられるようになりましたが、もともとは仏教の用語だったようです。

みょうほう 【妙法】
① 〔歴史的仮名遣い「めうはふ」〕うまい方法。
❷ 〔歴史的仮名遣い「 めうほふ」〕〘仏〙
 1) 最もすぐれた正しい教え。特に仏の教えのこと。
 2)「法華経」の教えのこと。

歴史的仮名遣いが、それぞれ違う…?どこかで変わった、ということなのかもしれません。また詳しい方はこっそり教えてくださいませ。

江戸時代の禅宗のお坊さまとして名前が残っている、良寛(りょうかん)和尚の言葉の中に、そんな「妙法」の話がありました。
この場合の「妙法」はたして、仏教の教えの方でおっしゃっていたのか、それとも、うまい方法、という意味でおっしゃっていたのか…残った文章からはよく分かりません。

と、その良寛和尚の言葉を出してくる前に、わたしの父が、それをどのように伝え聞いていたか、という言葉を、引っ張り出して、並べておこうと思います。

良寛和尚は「困ったときには、『困った、困った』と、しっかり困るのが良いのだ」と言っていたのだ。

…なんのことを言っているのやら、今ひとつよく分かりません。下手に逃げないこと、ということでしょうか。

良寛和尚の言葉そのものは、以下のようなものであったのだそうです。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

死ぬ時節には死ぬがよく候

これはこれ災難をのがるる妙法にて候

こちらからお借りしました)

父の言葉と比べてみると、だいぶ意味が変わっているようにも思いますが、どうでしょうか。

わたしたちは、大難を小難に、小難を無難に、と祈ります。それは誰しも、素直な心情です。
そして、自分に降りかかる災難を、なんとかして、避けたい、と、ついつい、逃げる姿勢をつくるわけです。
…とはいえ、完全に逃げられる場合ばかりではありません。中途半端に逃げて、災難が降りかかったときには、「逃げたかったのに!」という残念な思いとともに、災難に遭遇する、ということになりかねません。

このこころの問題を、良寛和尚は、おっしゃっていたのではないか、と勝手に考えています。

つまり、災難に遭遇したことを、いったん、きっちりと、受け止める。
そうすることで、葛藤が解消し、現実対応がしやすくなる、ということがあるのかもしれません。

これが災難をのがれる妙法…という言い方をしておられる良寛和尚に、「逃げられてないじゃん!」ってツッコむことはできるのかもしれません。

が、ひょっとしたら、目の前にある災難そのものを逃れるか逃れないか、ということよりも、より大きな災難が、現実を認められないことによって出てくるものだ、ということを指摘されたのかもしれません。

病気の話で言うならば「熱が出る時節には、熱を出すがよく候」と、そのような話なのかもしれません。「痛みがある時節には、痛みを認めるがよく候」でしょうか。
あるいは、良寛和尚でしたら「痛みを味わうがよく候」くらいのことをおっしゃっていたかもしれません。

実際問題として、じゃあ、目の前にそれがやってきて、言うとおりの実践が出来るか?となると、また話は変わってくるかもしれません。
が、1つの心構えとして、時節に従うのが良く候、というのは、どこかに覚悟できると、本当に災難を逃れる妙法になる…かもしれません。