物語がひきおこす力
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
百人一首でもおなじみの持統天皇の歌です。
現代語訳すると
「春が過ぎて、夏が来たらしいですねえ。あの天の香具山に真っ白な衣を干しているということですよ」というような文意になる、と、わたしは学校で習ったように記憶しています。
で、どうやら、これは藤原定家がもとの歌を書き換えた、という話になっていて、古い万葉集にはもとの歌が残っています。こちらも有名なところです。
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山
現代語訳すると
「春が過ぎて、夏が来たようです。天の香具山に真っ白な衣を干しているところだよ」と、なるらしい、って話でした。
この真っ白な衣を干している、っていうあたりが、どうしてそんなに「美しい」風景なのか、今ひとつわたしにはわかりませんでした。
高校生のころは、福岡県に住んでいましたが、通学の沿線には、女子柔道で有名になった田村亮子(現在は谷亮子)選手の通っていた福工大というのがありました。ちょうどその福工大あたりで、電車の中から、柔道着(らしきもの)が干してあるのが見えていたという記憶があります。柔道着もいちおう、「白い衣」ですが、どうにもそのイメージが強くて、この歌が美しいとは思えなかったのです。
それを、ボディートークの増田明氏は、別の解釈をしました。
この「白妙の衣」というのは、香具山の冠雪なんです。
香具山の麓で、毎日それを見上げていたのだけれど、ある日、ふと見たら、冠雪が溶けてなくなっていた、という光景をみた持統天皇が、「ああ、香具山は、真っ白な衣(=冠雪)を、干しに行った(=だから山頂が白くない状態になった)のだなあ、これは夏の訪れの光景であることだなあ」と詠んだのです。
この解釈ならば、「衣ほしたり」と直接的な表現だったものを、「衣ほすてふ」と伝聞にするのは、美しさが増します。
つまり
「どうやら、春が過ぎて、夏が来たらしいですよ。ほら。天の香具山が、あんなに白かった雪の衣を脱いでおられます。あの白い衣は話によると、干しにいらっしゃったんだそうですよ」という現代語訳になりますし、
もとの歌は
「どうやら春がすぎて、夏が来たみたいです。天の香具山の白い雪の衣を、脱いで干しておられるのですから!」というくらいの意味になるのだろうと思います。
同じ歌なのに、解釈の物語が変わるだけで、白い衣、から受け取る印象がまるで異なります。
想起される風景がちがう、というのは、それだけ、言葉が力をもっている、ということでもあります。こうした物語や解釈による、イメージの違いは、それだけで人の心に大きな影響を引き起こすことができるものだ、と思いますし、素敵な和歌が伝わっている日本文化の歴史をありがたいものだと思うわけです。