産婦人科医になると決めたときのこと

中島洋先生の論文「分娩室での早期接触とその後の管理ー心の曙そしてDNAスイッチー」(周産期医学2002 Vol.32 増刊号 405ページ~) より 出生直後の児の表情

医学部を卒業して、国家試験に合格すると、その後「卒後臨床研修」というのを済ませる必要があります。というか、ちょうど私が卒業の時にそういう新臨床研修制度が成立しました。

それ以前はほとんどの先生が卒業のタイミングでご自身の専門を「これ!」と決めて、大学の「医局」というところに「入れてください!」ってお願いに行く、というやり方だったんだろうと思います。

内科の医局なんかでは、それぞれ専門性が高かったりしますから、お互いに融通しあっていたのか、「内科ローテート」という研修をしていたりはしましたし、病院によっては、そのような訓練をしている施設もありましたが、全員が「内科系、外科系を含めたローテート」をするようになったのは、この制度が成立して以来、になります。

なので、ひとまず、卒業のタイミングではなくて、2年のスーパーローテートが終わるころに進路が決まっていれば良い、ということになりました。実際、2年の研修の間に志望する診療科を変更した同期もいました。

私が産婦人科医になる、と決めたのは、大学を卒業するちょっと前、でした。じつは学生結婚をしていた私は、卒業試験の前に長男が生まれるところだったのですが、そのお産をとって頂いた中島洋先生が「うちのやり方でお産して育児を始めることで「夜泣きしない」「親子の絆が強くなる」「子どもが賢く、そして優しく育つ」のですよ」と教えてくださったのでした。

夜泣きはするもの、と思っていましたけれど、そうじゃないんだと。これを、どうやって見つけたのか、とお尋ねしたら、赤ちゃんをしっかり観察していたら、わかる、と一言だけでした。

夜泣きの原因は、昼間の面会がストレスになるから、という、いったいどうやったらその関連を発見できるのか、は、今でも疑問ですが、これは大変なことを知ってしまったけれど、このことを知ってしまったからには、やはりこの領域で仕事をしなければならない、と心に決めた、のでした。

この縁を頂くきっかけになった長男は、親孝行のほぼ全てをここで果たしてしまったのではないか、とも思います。

実際に医院にお邪魔して、お産を見せていただき、お話を伺ったのは、暦にするとたかだか2週間でした。「先生、開業されるの?」と水を向けていただいた時には、開業するなんて、夢にも思っていませんでしたので「いえいえいえ…」と否定のお返事をしたのですが、今でも悔やまれます。

その後も、時折激励のお電話を頂戴したりしていました。

先生はその後、体調を崩されて現場を離れられたのだとお伺いしました。2023年には、歩くことが難しくなってらした、ということで、とうとう施設に入所され、2024年の春には鬼籍に入られてしまいました。90歳を超えておられましたが、施設でコロナに感染されてから、ずいぶんとお痩せになられていかれたのだとお伺いしました。コロナ騒ぎの前ころまでは「心のはじまりを、分子生物学的な形で研究したい!」と意気軒昂でいらっしゃったのですが…

この出会いがきっかけで、わたしは産婦人科医を志しました。なので、指導をしてくださった産婦人科の先輩の先生は沢山いらっしゃるのですが、お産についての師匠、と言えば、この先生をおいて無い、という思いがあります。

その後、紆余曲折を経て、教えて頂いたようなお産の場所を整えることは叶わないままに、今にいたり、お産の取り扱いをしないクリニックを作ったわけですけれど、大事な教えを、ちゃんと次の世代になんらかの形でお伝えせねばならないよなあ…と、大きな宿題を抱えている気分でいます。