第一印象と「刷り込み」

一部の鳥では、卵から孵化するときに、最初に見たうごくものを親と思い込む、という習性があるのだそうです。「刷り込み」とか「インプリンティング」と呼ばれています。
ローレンツがこれをわりとしっかり研究した、ということで有名です。
彼は、ある時、うっかり雁の雛に親だと認識されてしまったらしく、この経験から、「刷り込み」を研究し、著作として一般にも有名になりました。
彼の後ろを雁の雛が並んでついていく、という図像はかなり有名になりましたので、ご覧になった方も多いのかも知れません。
ヒトはそこまで強い刷り込みが発生するわけではありませんが、それでも、出会った時の第一印象というのは、やはり大きく影響をするものなのだろうと考えます。
昔、山中康裕先生が退職されるときに、退職記念の論文集を出版されました。(京大心理臨床シリーズ2『心理療法と医学の接点』)ちょうど自主ゼミでお世話になっていた頃のことで、「あなたたちにも、寄稿する権利をあげます」と言って頂いたので、ひとのお産が、「世界とはじめて出会う体験」である、という観点から、中島洋先生から教えて頂いたこと…ブログにも少し書きましたが…を中心に文章を書いたのでした。(「出産の風景——出会いの瞬間として」)
この論文集の出版が、ちょうどわたしが大学を卒業する前後のことだったと記憶しています。医学部には卒論、という制度はありませんが、この時の論考を、わたしは勝手に、自分の卒論だと思っています。まあ、学部の卒論ですから、まだまだヒヨッコな文章ですが。
冒頭を一部引用いたします。
ある人や、モノ・コトと出会うとき、その出会い方は、その後の私と、その人やそのモノ・コトとの関係を強く規定する。たとえば初めて訪れた外国の、ほんの数日の滞在などでは、決してすべてを見ることも、体験することもできるわけがないのは、理屈では分かっている。けれども、ときに季節はずれの荒天のせいで、あるいは、本当に不運なめぐり合わせとしか言いようのない偶然の繰り返しによって、初めの印象が悪いものであると、その後のイメージの訂正にはよほどの労力を要するものである。
出会ったときの印象というのは、それほどまでに強く私たちの裡に刻み込まれるものなのである。それを訂正する、ということは、刻み込まれたしるしの上に、より深く印象を刻み込む、という作業になるのだろう。この作業はつまるところ、「別の出会い方をする」という形でしかなし得ないのではないか。
(中略)
私たちの人生における、最も大きな出会いのひとつは、誕生のときにある、という主張に異論を差しはさむ人はいないであろう。そのとき、私たちはまさに「この世界」に触れる。産声をあげて空気に触れ、眼を開いて光に触れ、羊水から離れて重力に直に触れる、そして臍帯を切り離されて母に出会う。それは他者との初めての出会いであり、自らの人生(Life 生活・生命)との出会いであるのだ。
それを迎える大人たち、彼らもまた、新しい生命に出会うのである。
果たして、私たちは自分の出生の時、どのようにこの出会いを経験してきたのだろうか。そして、新しく生まれ出る子どもたちと、どのように出会っているのだろうか。
生まれてきた、その時に「あたたかく」迎えいれてもらったかどうか、ということは、生まれてきた子どもにとって、世界は信頼に足る場所なのかどうか、を判断する、いちばん最初の大きな情報になります。
そして、第一印象というのは、けっこう大きい。
なんなら、その第一印象を、その先「確認する」ような行動をとってしまうことだってあります。
アドラー心理学では「世界像」と呼びますが、ひとりの個人が、世界をどのようなものだと考えているのか、ということの根っこが、ひょっとすると、この生まれてすぐのタイミングに決まっているのかもしれない…と思うと、背筋が伸びる思いがします。