老眼と白内障
ある程度年齢が重なってくると、老眼、というのが気になってきます。
近くにピントが合いづらい。
わたしも近くを見る用のメガネをつかっています。
ある時、入浴中、シャンプーのボトルに書いてある文字が読めず、どのくらいまで離したらピントがあうのか…と試してみたところ、腕をいっぱいに伸ばしたくらいの距離でやっとピントがあいました。
さすがに、そこでピントがあう、と言っても、今度は遠すぎて小さい文字が読めません。やっぱり老眼鏡みたいなものが必要だよなあ…としみじみ感じたのでした。
ヒトの目のピントについて、少し調べてみました。
眼球の中にある「水晶体」という部分が厚くなったり、薄くなったりして、ピントを合わせます。
年齢がすすむと、このピントを合わせるはたらきが、段々ゆっくりになってくるのだとか。
水晶体が年齢を重ねるごとに、「かたくなる」ようです。
また、この水晶体を動かしている筋肉、毛様体筋という名前がついていますが、とても小さい筋肉なので、なかなか鍛える、というわけにもいきません。
いきおい、遠くや近くに自在にピントを合わせる「調節力」というのは、だんだん低下するのだそうで、眼科の先生によると「年齢の一次関数で決まっている」ということでした。
実際の調節力の変化は、たとえばこちらにグラフがあります。

十代のころの調節力に比べると、三十代半ばにはおよそ半分になり、五十歳を超えるとほぼ「ゼロ」と言っても良いような状態になってくるようです。
こうした眼であっても、ピントがあっている距離のものを見ると、ぼやけずに読めるわけです。
特に昼間や、しっかり明るくした場所では、わりと良く見えることが知られています。
逆に、年齢が上がると、夜道が見えづらくなります。
鳥目、という表現がありましたっけ。
ニワトリは夜になるとものが見えづらくなるから…という話です。まあ、鳥にもいろいろあって、夜行性の鳥もいますから、必ずしも全ての鳥が鳥目というわけではなさそうですけれど。
動物の目の話をすると、「ネコの目のように(くるくると変わる)」という表現もあります。
ネコの目は、暗いところに入ると、瞳孔がすごく大きく拡がります。光をたくさん取り込むことで、暗い場所に対応する…という反応です。
この瞳孔の変化は、ヒトでもみられるわけです。
夜間など、暗いところに入ると、瞳孔が拡がります。
もちろん、それだけじゃなくて「暗順応」といって、網膜の反応が、暗さに慣れてくる、というのもあるようですが、こちらは30分とか1時間くらいで徐々に…という反応ですから、だいぶ時間がかかります。
まあ、暗いところにいると、瞳孔が拡がる、と考えてください。
この瞳孔というのは、一眼レフカメラなどで言うところの「絞り」に相当します。
英語ではアパチュア、と呼ぶらしいです。まあ開口度合い、というような意味でしょうか。
このアパチュアが大きい…つまり、絞りが開かれている、あるいは、瞳孔が拡がっている、という状態であると、ピントが一部にしかあわなくなります。
一眼レフカメラで、格好良い写真って、目標の被写体にピントがあっていて、前後の部分、すごくピントがボケているようなものを見かけたことがあるかと思います。
これが「絞りが開いた」状態。
けっこう印象的な写真になりますので、芸術点は高くなるのですが…ピントが合っていないところを見ようと思うとけっこうつらくなります。
カメラの、絞りやシャッター速度、フィルム感度などを一覧にした図がありました。

https://dnaimg.com/2015/04/27/this-picture-shows-how-aperture-ion/001.jpg
これを見ると、アパチュア(絞り)のF値が小さくなると、画像は明るくなるのですが、ピントが合いづらくなる…というのがわかるかと思います。
ヒトの目の話になると、シャッター速度とか、フィルム感度とか、そういうことを言えなくなりますから、明るさと瞳孔(絞り)とが、きっちり関連して、暗い場所、明るい場所、ということになりがちです。
(じつは、ヒトの瞳孔は、それだけじゃなくて、強い興味を示した時には開く、ということが知られています。心理学の実験などでは、この反応を観察したりすることもあるようですが、ちょうど絞りを拡げて、ピントが興味の部分だけにあたっている映像、というのは、こういう時の「瞳孔が開いた」経験を再現しているのかもしれません)
いろいろと書いてきましたが、ピントが合わせづらくなることと、絞りが開かれた状態になることが重なると、ピンボケになりがち、ということです。
被災時のライフハックとして、ピンホールから覗くことで、細かい文字にピントがあうようになる、ということをおっしゃっていた方がありました。
メガネを失ったときにはそれなりに有効な智慧ですが、これも暗いところではあまり役立ちません。
そういえば、ピンホールカメラ、っていうのもありました。
もともとのカメラはそっちが先だったようです。
最近でも、デジカメのレンズ代わりに、ピンホールを使ったり、あるいは、フィルムカメラに使ったり、ということもされているようです。
まあ、光の量が少なめですから、加減が難しいみたいですけれど。
ヒトの目が「モノを見る」とき、モードが二種類あるのだそうです。
ひとつは、「目の前にある光をそのまま受けいれる」ようなモード。もうひとつは、「見えているものの意味を考える」ようなモード。
後者になると、ぼんやりうつっている画像がなにを示しているのか…?というあたりがすごく気になったりします。
気になると、頑張って見てしまう。
この「頑張って見る」という行為が、目の緊張を強めている、なんておっしゃる方もあります。たしかに緊張の要因になりそうですので、ぼんやり眺めるような、そんな使い方をしていただくことも大事なのかもしれません。
そういう意味では近視というのは、目の緊張を緩めたような状態ですので、現代社会にとてもよく適合している、と言えるのでしょうか。
わたしが若い頃に読んでいた作家で、曾野綾子というひとがありました。エッセイなども残っているのですが、彼女は、たいへんに強い近視だったのだそうです。
牛乳瓶のビン底のようなメガネをかけておられた…という話でしたが、白内障の手術をうけた結果、ほぼきっちりピントが合うようになったのだとか。
当時は眼内レンズというのがありませんでしたので、術後には、凸レンズの分厚いメガネをかけることが多かったのですが、彼女の場合は、そのメガネの必要性と、今までのメガネ(凹レンズ)の必要性がちょうどプラスマイナスゼロになったのでしょう。
(調べてみると、この水晶体を取り除く…あるいは墜落させる、という手術は、ずいぶん古く…インドでは紀元前800年頃から…やっていたようで、日本でも室町時代には伝わっているのだそうです。すげえ)
この手術をしたとしても、矯正器具がなければ、ぜんぜんピントがあわなかったでしょうけれど…。それでも見えていたのでしょうかしら?
目にうつったものが、どんな風に見えているのか?というあたりは、これはとても説明が難しい話になります。
手術をするというのは、本当に窮余の一策で、やむにやまれず、という話であったのかもしれません。







