背中を預ける

ボディートークのプログラムには、ひとりで行う動きと、複数で取り組むプログラムとがありました。背中を預ける、というテーマのプログラムも、そんな複数人数で取り組むプログラムの中にありました。

立ったひとが、そのまま、背中側に倒れかかっていく、のを、ちゃんと受け止める、というような、そんな形のプログラムでした。

ひとの身体、というのは、自立しているときはともかくとして、力が抜けていると、とても重たいわけです。大きい方と組む時は、倒れる角度を小さくして、あまり支える側に荷重がかかりすぎないように、という工夫をしていました。

受け止めるひとは、こちらはこちらで、技術が要ります。ガツン!と受け止めると、背中が痛いし、あまり心地よくない。なので、ふんわりと受け止めて支える、という柔らかさが推奨されていたのでした。

そんなプログラムのことを思い出したのは、最近、「背中を預ける先がない」ような方がしばしばおいでになるからです。

安心して委ねられる、背中を預けられる、という安心感は、けっこう得がたいものです。

この安心感が得られない状態を言うなら「自分がなんとか、ひとりで頑張らねばならない」というような心持ちと言えます。

現実的に、パートナー的なひとが存在するかどうか、ということと、自分のイメージの中で「背中を預けられる先がない」ということとは別の事象ですが、ひとを頼ることっていうのは、本当に難しいです。

昔は醤油の貸し借りをしたりする、長屋的な生活があった…という話を読んだことがあります。現代社会は、そこからずいぶんと遠くに来てしまいました。

いわゆるニュータウンで、「秋深し、隣は何をする人ぞ」と、ご近所づきあいを消し、核家族の、プライバシーが保たれる場所を求めた結果が、今の都会における「社会」です。

手伝ってもらう、ということは、プライバシーに踏み込まれることでもあります。

とはいえ、ワンオペではどうしようも無いことだってあります。

どうにか、プライバシーを確保しつつも、手伝う、手伝ってもらう、という形を、うまいこと成立させる、そんな良い話が転がっていないだろうか…と、「背中を預ける先がない」という方をみると、考え込んでしまいます。