自他の境界線その2

「自分と他人のあいだに境界線を引きましょう」
「家族であっても『他人』なのです」

…と、そういうことをここしばらく書いてきました。

家族も他人

漢方内科での診療をしていると、いろいろなお悩みで来院される方がいらっしゃいます。そういう方にお話をすることもけっこうあります。身体だけ元気になったら解決、とい…

自他の境界

先日「自分の分限」を超えたものに手を出すことは「偸盗」である、という話を書きました。 偸盗戒の説明はまだ続いています。分限の話のすぐ後ろに、宝間比丘という方の逸…

同時に、こうした「個」を尊重する社会というのは、ある種の個人主義的な文化が背景にある、ということを指摘もしました。
もう少し境界線が緩やかな文化もあるのだろうと思います。

内田樹が、学生運動を思い返して「あの時、ひとりひとりは、大きな動きのなにものかに融合していた」というようなことを書いていたように記憶しています。わかりやすい例だと『スイミー』のような。

『スイミー』レオ・レオニ

そうした、ひとが集まって、擬似的に大きな存在になる、個人であることを一時棚上げして、そうした大きな存在の一部である、ということは、場合によっては、ここちよいことでもあるのだろうと思います。

学生運動にも、時代があります。
かつては演者が「われわれはぁ!」と語りはじめたら、皆同意していた、というような時代があり、その後、聴衆の中に「その『われわれ』のなかから、『わたし』はさっ引いておいてくれたまえ」と茶々をかえすようなエピソードが出てくるような時代になったようです。

擬似的にひとつの生命体のような…と言っても、それが永遠にそのままひとつであるわけではありません。

たとえば、妊娠出産・育児の話を取り上げて考えるなら、妊娠した時から、しばらく、母児はひとつのユニットです。出産してすぐに、「身二つ」になると言っても、まだまだ雰囲気としては、「母児」でひとつのユニットです。

どのくらいで離れていくか、を上手にあらわした言葉がありました。

調べてみると「子育て四訓」と呼ばれるものだそうで「山口県下関市の教育者であった緒方甫(はじめ)先生が提唱した」ということになっているようです。

一方で、似たような言葉が、ネイティブアメリカンの言葉、とされていたりします。どちらが本当なのか、よくわかりませんが、子育てのポイントを上手に言いあらわした言葉ですので、ご紹介します。

子育て四訓

一.乳児はしっかり肌を離すな

二.幼児は肌を離せ、手を離すな

三.少年は手を離せ、目を離すな

四.青年は目を離せ、心を離すな

https://tama-tips.jp/living/blog/69-tama-kosodateyonkun.html

母親と子どもは、生まれてきてから、しばらくは、一心同体的な期間があります。そして、ちゃんと大人になってゆくときに、段階的に親離れ、子離れをしてゆくべき、ということです。

これを最初から離れていく、ということをすると、子どもは生きてゆけなくなりかねませんし、いつまでも一緒で、離れない、となると、お互いに不健康な関係になりかねません。

乳幼児の育児で、有名な『スポック博士の育児書』というのがあります。これも年代ごとに版を重ねると、内容が変化してきているようですが、かつては「子どもが泣いていても、自立を促すために、放置しましょう」というような表現があったそうです。

まあ、米国の戸建てだと、個室があって、音の伝達もあまりしなかったのかもしれません。「日本の家庭で、子どもが泣いているのを放置するのは、どうにも難しいよねえ」なんて話をしていたことを覚えています。

2000年ころだったでしょうか、このスポック博士が、「もっと乳幼児は抱っこした方が良い」という意見に修正された、という話を聞きました。それまでの「個を重視する」というあり方は、必ずしも「個を重視」していたわけではなかった、という反省がなされたのかもしれません。

むしろ、幼少期にちゃんと大人が密接に関わっていた子どもの方が、きっちり自立できる、ということだってあります。

そういえば、「課題の分離」を徹底した、という方の「困ったエピソード」というのも読んだことがあります。

とある学校(だったか、教育施設だったように記憶しています)で、そこに通っておられた子どもさんが、ずいぶんと問題行動を起こしておられたのだとか。指導者は、子どもに指導をしますが、なかなか改善しない…ということで、困った結果、家庭訪問をしたのだとか。そこで、親御さんに「おたくのお子さんが…」と相談をもちかけたのですが、その親御さんは、「ウチは課題の分離をしていますので、子どもの問題は子どもに伝えてください」と返事された…という話でした。
アドラー心理学の使い方としては、あまりお薦めできる使い方ではありません。
アドラー心理学であったかどうか、すら、さだかではありませんが、アドラー心理学を根拠にそれをなさっていた、というのであれば、それはあまりにも自分に都合の良い部分だけをつまんだ、いわゆるチェリーピッキングの結果であると言えます。

わたしのブログをご覧の方で、そういう方はいらっしゃらないかと思いますが、どうぞくれぐれもご注意頂きたいところです。

境界線の話でした。

文化によっても、そして、子どもの年齢によっても、その境界線は違ってくるのだ、という話です。

そもそも、医療職っていうのは、どこか「おせっかい」が始まりにあります。「課題を分離します。あなたの病気はあなたが引き受けるものですので…」なんていう話をして、患者さんに全ての診療方針を委ねる医者がいたら、やっぱりどこか変だ、と言いたくなるでしょう。
とはいえ、パターナリズムを全開にして、なにもかもを医師が決めて、患者さんの思いをいっさい忖度しない、というのも、現代日本においては、ちょっと違うのではないか、と思うでしょう。
そうした曖昧なところに境界線があり、そこを時と場合によって、行き来したり、踏み込んだり、あるいは遠ざかったりしているのが、日々の臨床なのだと思います。

だから、踏み込まれすぎてくたびれている方には、「課題の分離を」と強く申し上げますし、逆にあまりに課題の分離を進めておられる方には「慈悲心を」というような事を伝えるわけです。

文字にすると、いろいろな方の目に届くようになりますので、このあたり、塩梅が難しいところではあるのが、目下の悩みどころです。