自分のことは自分がいちばん…

自分のことは、自分がいちばん「わかっている」。という文章も結構あります。
同時に、自分がいちばん「わからない」という文章も、かなりあります。
どちらが正しい、という話ではなくて、どちらの文章にも「一理ある」ということなのだろうと思います。
自分がいちばんわかっている、というのは、まあ、そんなに難しくありません。
自分自身が、自分というひとにずーっと付き添っているわけで、今までの経験を全部知っているわけですから。
でも、だから、自分自身には「わからない」ことがある、という言い方が適切なのかもしれません。
一時期、「自分さがし」という言葉が風靡しました。
自分自身は、自分と一緒にあるわけですから、個体として探す、というものではありません。が、「今までに経験していなかった場所や物事に触れる」ということを繰り返すことで、自分自身の、思いがけないような側面が浮き彫りになる。そうした経験を通して、自分の輪郭をとらえ直す…ような営みのことであったのかもしれません。
自分が「わからない」というのは、特に「自分自身が当たり前になってしまっていること」を、他の人がすごく評価するものごとだったりする、というところに出てきます。
以前も書きましたが「自分(の技能)にネダンを付ける」というのは、とても難しいのです。その理由のひとつが、この「自分自身にとってはあまりにも当たり前になってしまっていること」への評価が低くなりすぎる、というところにあるのかもしれません。
こうした「当たり前になりすぎているものごと」を浮き彫りにするために、普段と違う行動をしてみる、というのは、良い刺激なのかもしれません。
その中で、他の人との比較などがあれば「ああ、意外とわたしはこうした作業が得意だったのか」などという発見もありそうです。
身体のことについても、似たような話はけっこうありそうです。
自分の身体ですから、どこかに不調がある…というのを全部把握しているのか?というと、それもちょっと違う。慢性化し、ずーっとある不調は、むしろ背景と同化してしまって、そのようなものがあったことを、忘れてしまっていることだってあるでしょう。
しばらくして、他の症状が消えてきてから、改めて「そういえば…」と症状が出てくることだってあり得ます。
で、あれば、長年付き合ってきた自分自身よりも、外からみているひとの方が詳しくなることだって、あるのかもしれません。
とはいえ、いちばん付き合ってきているのが自分であることも、間違いないですし、これから一番、自分の身体と付き合ってゆくのも自分自身です。
ですから、上手に、自分の身体のことを知っていただいて、できるだけ、自分自身で、自分の身体の機嫌を良くする方法を覚えていただきたい、と、そのように考えています。













