自分の言葉で語るということ

わたしの何人かいる師匠は、それぞれ、いろいろな事を教えてくださいました。
それらを学んだことで、わたしは、一時期、自信過剰になっていたのだ、と思います。

つまり、師匠が「これこれ、こういうことができる」あるいは「これの対処は簡単で…」と言っていたことを、自分でも「できる」とか、「簡単だ」と勘違いしていた、のでした。

実際に、じゃあ、その場面で「あなた、やってみなさいよ」と言わんばかりの状況があったのですが、大口をたたいていたわたしは、結局、思っていたような成果を出せませんでした。
その時まで「師匠」と「自分」との「分離」ができていなかった、ということなのかもしれません。
(師匠と自分の分離ができていない状態を全て忌避するべきだ、という話ではありません。師弟関係の中で学ぶ、という中には、一時的に、師匠と弟子が、一体のような状態であることも必要な時期があるのだろうと思います)

師匠が「できる」と言っていたこと、と、それを「自分ができるかどうか」は別である、ということを認めて、自分ができること、できないことを弁別するのは、ある意味でつらい作業でした。師匠のもとで、やや肥大した万能感のようなものをそぎ落とす作業になるわけですから、まあ、無理もありません。

こうした経験から、師匠の言葉をそのまま借りてきて、自分が語る、ということの危うさを自覚するようになりました。
借りてきた言葉で語る、というのは「引用」を明記しなければなりませんし、わたしが何かの成果を出せるかどうか、というところには、「わたし自身ができるかどうか」をわたしの言葉でハッキリさせなければなりません。

こうやって、師匠とわたしはそれぞれ別の人格であることをハッキリさせること、わたしはわたしで、自分自身の言葉を持つこと、の大事さを覚えていったのだと、そのように思います。