良い靴と良い足
昨日のブログは「縁の森」という題で書きました。
こちらのブログの中でご紹介した、シュークリニック 靴のマシモさんに、はじめて伺って、そして、靴をあわせてもらった直後のこと。
いちばん最初の師匠に「すごく良い靴やさんを見つけたんです!」って喜び勇んで報告をしたのでした。
「そうか。わしもな。良い方法を見つけたのよ。それはな。「裸足」じゃ」と返事されたのでした。
うーん。裸足かあ。はだし、なあ…。と思いつつ、ずいぶんと長いこと、わたしは靴の生活をやってきたわけです。
「裸足が良いのだ」と言われたことだって、忘れていました。
その後、わたしが生きてきた中で、いろいろなご縁を頂戴したのですが、フィリピンの貧困地域で医療活動をされていた、冨田江里子さん、という方がいらっしゃいます。
『助産雑誌』という、助産師向けの月刊誌にしばらく連載をなさっていて、その原稿をもとに、本『フィリピンの小さな産院から』(2013年)を出版されたのが、ちょうどご縁を頂いた前後のことで、出版記念として、講演会を開いたりしたのでした。

フィリピンには、アエタ族という、狩猟採取を中心にした生活を長年続けて来た民族がいます(書籍表紙の写真は、アエタ族の赤ちゃんを冨田さんが診察している場面です)。
このアエタ族におられる長老の一人が、履き物を履くことの弊害を指摘しておられるのだとか。
世の中、面倒くさい病気が増えて来たのは、サンダル(彼らは熱帯でもあり、あまり靴を履きません。サンダルですから、まだ足の指はよく動きます)を履くようになったからだ。というのです。
サンダルを履くことで、大地の精霊との繋がりが遮断されてしまった…と、そのような表現だったそうです。
おおお。靴どころか、サンダルもやめておいた方がよいの?
もちろん、場所によります。うっかり尖った岩や、ガラスの破片などを踏んでしまわないとも限りません。
が、かれらは、足裏の感覚も繊細なのでしょう。
わたしたち日本人なら、うっかり踏み抜いてしまいそうな、そんな尖ったものに、足が触れると、上手に重心を動かすのか、あまり釘を踏み抜いた、というような怪我は多くないのだそうです。
フィリピンを訪問していたころ。現地でのひとびとがどのような生活をしているのか、多少拝見することがありました。
冨田さんの活動は、主にフィリピンの貧困地域でした。現地は経済格差が大きく、富裕層は、今の日本よりずっと清潔で、直線と平面に囲まれた環境にいます。
が、貧困のひとたちは、二畳くらい(あるいはもっと狭い)の空間に家族5人雑魚寝、とか、そういう生活をしている方々がありました。
彼らは、お金がないぶん、自分たちの身体をつかってなんとか生活をしています。
そして、日本に帰ってきて、日本人の身体の使い方との差が大きいことに愕然とするのでした。
日本で生活する道はあまりにも平らで、階段なども、それぞれの高さが一定で、いわば、一本調子で歩けてしまいます。
だから、地面のコンディションとか、次に足を載せる場所とか、そういうことを考えなくて良い。
考えずに、ボンヤリ、同じ形で足を出していたら、特に問題無く歩けるわけです。
すごく楽です。
そして、車椅子だったり、自転車だったり、あるいはキャリーバッグだったり、というものも、スムーズに通れる場所です。
ですが、あまりにも、その「平坦な」道に慣れてしまったら、ひょっとすると、足は退屈 しているのかもしれません。ついつい、同じ場所ばかり使っている、ということだって起こりそうです。
良い靴で足を守ることで、鈍感になり、平坦な地面をボンヤリ歩くことで、さらに鈍感になり…。
すれ違う人が多いので、情報だけは過多になりそうですから、それを見ないように、と、音楽を聴きながら…。
現代社会は意識に対しての刺激が多くなりすぎているのかもしれません。
自然の中に…と言って、はいそうですか、じゃあ、自然の中に…と戻れるわけではありませんが、裸足になるとか、足もとが平らじゃないところを歩いてみるとか、そういう経験も大事なのかもしれない、と時々思います。












