見立てという物語

クリニックには、最近、いろいろな方が来てくださるようになりました。
西洋医学の病院に行ったのだけれど、対症療法だけで、根本的な改善につながらないので…と、漢方を試してみたい、などとおっしゃる方もちょこちょこいらっしゃるようになりました。
漢方を試してみたい、とか、以前漢方で良くなったことがあって…とか、漢方へのニーズって、それなりにあるんだなあ、と思いながら、診療をしているところです。
漢方の診療をするにあたって、いろいろな診察を行います。
「望聞問切(ぼうぶんもんせつ)」とまとめて呼ばれるのが、「四診(ししん)」ですが、
望診:見る
聞診:聞く(あるいは、匂いを嗅ぐ)
問診:話を聞く(あるいは症状などを整理して、その様子を訊く)
切診:身体に触れて診察する
…と四つにわかれています。
で、これらの診察で得られた所見などをひっくるめて、まとめ上げるのを「四診合診(ししんがっしん、あるいは ししんごうしん)」などと言うわけです。
この時に、たとえば脈ではこういう感じがあったけれど、お腹ではこうで…という所見を整理して、自覚症状を参照しつつ、診察の所見の優先順位をつけるわけです。
すべてがまったく同じ方向を向いているならば、方針はわりと明確になります。
たとえば、脈も「冷えています」っていう感じがあったとして、ご本人も「冷えている感じがします」っておっしゃっていて、舌を見ても「冷えている様子」があって、お腹に触れても「冷えている」という様子だったりすると、じゃあ、温める処方にしましょうか。みたいな形で、話がわかりやすいわけです。
ですが、なかなか、そのようにシンプルな話だけではありません。
脈は「熱がこもっています」という感じになっていて、本人は「のどが渇きます」とおっしゃっていて、お腹は「気がのぼっています」みたいな話をしていて、足は冷えている、なんていう方もあったりします。
そういう様子を見て、えいや!っとまとめ上げて、説明するわけです。
これが、ある種の「見立て」ということになります。
この見立て、というのは、いわば、わたしが作り上げた仮説であり、物語です。
身体という場で、それぞれの臓器がどのように働いて、いま、どういう状況になっているのか。
たとえ話を混ぜて、そんなお話をすることがしばしばあります。
いま、あなたの身体のなかでは「エライコッチャ!」になっていて…とか。
いまは、あなたの身体は、すごくお疲れの状態になっておられて…とか。
そういう物語の筋道に、何を選ぶか?というあたりが、「四診合診」の時の取捨選択としてあらわれるわけです。
たとえば時代小説でも、同じ時代の、織田信長公に焦点をあてた物語と、信長公を本能寺で焼き討ちにした、明智光秀公に焦点をあてた物語とでは、話の筋道が異なります。
わたしは、若い頃に、織田信長公の伝記小説を読んだ直後に、『細川ガラシャ夫人』という、明智光秀の家臣…の夫人?の伝記小説を読んだことがありました。一冊前の本では「おのれ明智光秀!許すまじ!」っていう気分になり、その直後に「おのれ織田信長!許すまじ!」ってなったわけです。感情移入しやすかった若い頃の話とはいえ、自分でも混乱しました。
えええ?あれ?織田信長って…さっき読んだ本の主人公?だよねえ?と、気づいた時にはだいぶ混乱したものでした。
だから、同じ事実…だけではありませんが、物語として引っ張り出してきて、表に語る内容っていうのは、どこかで、誇張があったり、強調がかかっていたりするものではあります。
なるべくシンプルな形にそれを落とし込んで、「見立て」として説明するわけですから、矛盾する話があれば、それらの片方だけを紹介したりします。
その物語で納得してもらえて、かつ、その見立てによる処方が有効であれば、それでよし。
万一見立てと物語がうまく成立しない時には、また、物語を修正せねばなりません。
漢方外来の毎日は、そんな形で、物語を作ったり、修正したり…ということをやっています。




