視線の話

目を使うと、頭が痛くなる、という方がいらっしゃいます。いわゆる眼精疲労による頭痛、というのがあるのだろうと思います。ほとんどは、筋肉のコリによる痛みでしょうから、いわゆる「筋緊張性頭痛」の分類に入るのでしょう。

目の緊張からくる頭痛のこと

頭痛の話も、産婦人科医がする話題ではないように思うのですけれど、臨床をやっていると、慢性的な頭痛をおっしゃる方も結構いらっしゃいます。話を聞いて、診ていると、…

目の疲れは、こめかみのところにも出るのですが、後頭部の「ぼんのくぼ」と呼ばれるあたりにもけっこう緊張が出ることがあります。このあたりの緊張はたいてい、目の使い過ぎ、だと思っていたのですが、最近、ちょっと違う事情もありそうだぞ…?という経験が増えてきました。

最近、施術で頭の調整をするようになってから、頭の中をわりと細かく観察することが増えています。そういう施術の時に、後頭部に違和感が出ておられる方の多くが、「ひとから見られること」について、緊張されることがある、ということに気づきました。

大脳の後頭部にあたる部分は、視覚野という、ものを見る働きに関係しているらしいです(解剖学的な正確さを言うなら、ぼんのくぼあたりは、むしろ小脳の方が近い筈ですから、あまりそういう脳の局在とは強い関係ではないのかもしれません)。

視覚野は、見ることに関連する仕事をしている場所だと思っていましたが、「見る」ことだけじゃなくて、「見られる」ことについても、同じような場所を使っているのでしょうか?

そういえば、ヒトや類人猿では「ミラーニューロン」という話がありました。別個体がやっている動作を、自分の中でシミュレーションしているかのように、神経のシグナルが動くことがあるのだそうです。

見ることと見られることの双方が、脳の同じような場所を使っている、ということであれば、それはそれで大変興味深い話になります。

ところで、「見られていることへの緊張」というのは、けっこう頭の大きな部分を占拠します。つまり、気分的にはわりと大きな負担になっている、ように見受けられます。

「後ろ指さされないように」とか「目立った立場なのでしっかり」とか、あるいは「男は家を出たら7人の敵がいる」とか、そういう言葉やイメージがしっくり来るような方もいらっしゃるのではないかと思います。

この「他者からの視線」は、けっこうつらいものだと思います。どうしても視線のもとは「他人」ですから、どこかで「他人軸」の評価になります。

なので、最近、この他者からの視線への緊張を、ちょっと変化させてみませんか、という話をしています。

「誰かが見ている」という話は「壁に耳あり障子に目あり」という標語でも言われます。

が、日本には、もっと良い言葉があるじゃないですか。

「おてんとうさまが見ている」という。

他者からの視線に「隙が無いように」とするのは難しいかもしれません。なぜなら、人間ですから「誤解」というものも入ってくるからです。誤解をも生まないように、という緊張とストレスは、かなり大きな負担になります。

おてんとうさまは、全部を見てくださっている、という存在になります。だから、誤解のしようがありません。

だから、自分自身の生き方が、おてんとうさまに恥じない生き方である、と納得できたなら、他者の評価に振り回される必要がなくなります。

こういう提案ひとつで、イメージが変わることも、場合によってはあります。それで頭が軽くなってくださるのであれば幸いです。