責任と罪悪感と

以前、「成人の日によせて」ということで、野田俊作氏のアドラー心理学的な責任の取り方、という話を書いたことがあります。
責任を取るということの3要素
「現状を回復すること」
「再発を防止すること」
「謝ること」
とはいえ、「現状の回復」というのは、必ずできるものではありません。
覆水盆に返らず、と書きましたが、ひっくり返った水をもう一度戻す、というのは基本的には不可能なこと、とされています。
たとえば、2色の色つきビーズを大量に混ぜ合わせたあとで、それぞれの色に分類する、というのは手間がかかります。ひょっとすると、もっと小さい粒であっても、莫大な手間をかければ、分別することが可能なのかもしれません。が、なかなか手間暇のコストとして、現実的には無理な話、ということになってしまいます。
ところで。
現状が回復しきらない場合に、それをどのくらいまでの事で容認するのか、っていうあたり、結構難しいのかもしれません。「形見の着物にシミをつけた!」とか、「先祖伝来の刀を折ってしまった」とか、そういうことになったときに、じゃあ、どのあたりまで回復ができるのか、ってことになってしまいます。
関与する相手が、もともと自他の境界が曖昧だったり、そこをぞんざいに扱うようなひとだったりすると、境界線を踏み越えて、過剰な要求を押しつけてくることになりかねません。
再発の防止についても「そんなことで再発防止になると思っているのか!」などと踏み込んでくる…割には、再発防止の提案がなかったりする…ひともいるかも知れませんし、あるいはどれだけ謝罪しても許さない!なんていうひともいるかもしれません。
たとえ、相手がそうでなくても、自分自身の中に「罪悪感」を抱え続けることだって、ありえます。
罪悪感から、無理をすると、物事はぜんぜん上手く進みません。
「罪悪感を押しつけられた」となると、もうひとつややこしい話になったりします。
アドラー心理学の、最初の講義に「課題の分離」があるというのは、もう何度も書いてきたことですが、罪悪感を自分が抱える前に、上手に課題の分離をしていただきたいところです。
とは言っても、健全に課題の分離ができる関係であれば、罪悪感を抱えるようなことは成立しづらいわけですから、すでに自他の境界線が曖昧になっていたり、あるいは境界線を踏み越えられていたりしたのだろうと思います。
世の中にはいろいろな形の覚悟があり、責任の引き受け方があるのだと思います。が、できることなら「罪悪感」のような後ろ向きな感情ではなく、もっと前向きな思いを原動力にした覚悟であって欲しいものだ、と思います。