運命の糸

芥川龍之介の掌編に『蜘蛛の糸』という作品があります。

地獄で苦しんでいる男「カンダタ」のもとに、極楽から一本の蜘蛛の糸が垂らされます。
それに気づいた男は、この糸をのぼりはじめます。

蜘蛛の糸はたいへん細いですから、じぶん一人の重みでさえ、気になるところですが、ふと見下ろすと、たくさんの人々が同じ糸にぶら下がり、のぼって来ています。

思わず男は「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と叫ぶのですが…そのとたん、糸が切れてしまうのでした。

もしも。

男(カンダタ)が、下を見なかったら。彼は極楽までたどり着いたのでしょうか。
あとに続く地獄の罪人たちは、続いて極楽にたどり着いたのでしょうか。

ここまであからさまな「糸」は、実生活でお目にかかることも滅多にないわけですが、運命というのは、なにか、「糸」の先に続いているような、そんな印象を持つことがあります。そういう大きな運命を、どうにかして自分の手許にたぐり寄せたい。
ただし、カンダタの時にもあったように、ちょっとでも過剰に力を込めると、きっと、切れてしまう。運命の糸って、もっとしっかりつながっていることもあるのでしょうが、こういう「引き寄せる」とか、そういう話になると、ギリギリの繊細さが必要な糸が登場します。

だから、「なにがなんでも引き寄せる!」というように、妙に肩に力が入りすぎたりすると、かえって、糸は切れてしまうのでしょう。
思いとしては「ぜひ引き寄せたい」と考えていても、動きは「来ても来なくてもどちらでも良い」という態度にしておかねばなりません。

それには、どのような運命であっても、引き受ける、という心持ちが必要になります。
とはいえ、決して投げやりになったりとか、破れかぶれになったりとかして、捨て鉢の態度で「もう、そんなことなら何でもかまわない!」と諦めてしまう、というのとは異なります。

このあたりが、ずいぶんと難しい。

真摯に求めつつ、同時に、やって来た運命をまるごと引き受ける…つまり、求めた物が得られても、得られなくても良い、という…覚悟をすること。

たとえば、占い師さんが、ひとの人生や運命なら、見通すことができるし、あるいは、それに対してアドバイスができたりする、という一方で、自分自身の運命をみたり、あるいは運命を選ぶようなことはできない、ということに似ているのでしょう。
ひとの運命をたぐり寄せることができる方であったとしても、自分のことになったとたん、本当に難しくなるわけです。「自分を自分で持ち上げる」わけにはいきませんので。

願った運命を引き寄せるために、力を入れる必要がある…のでしょうけれど、力を入れた途端に糸が切れてしまう…という予感もある。
だから、力を入れないようなままで、それでも力を入れる。

この塩梅がやはり、とても難しいわけです。
こういう無理難題は、ですから、自分ひとりでなんとかしよう、と思うと間違えるわけです。

ではどうするのか?

だからこそ「人事を尽くして天命を待つ」という姿勢が必要になるのだろうと思います。
天命を待つ時には、ちゃんと頭を垂れることが必要になります。

ひとのあり方を超えたところにある天命を、個人の我で引っ張ってくることはできません。呼び込む…と言えば呼び込む、なのでしょうが、それも、自分自身が決めることではない、わけです。

日々の生活の中で、「どちらでも良い」という姿勢と、それでありながら「よい運命を」と求める姿勢とを、上手に両立させるところにこそ、運命の引き寄せ方のコツがあるのだろうと思います。