領域侵犯と公共の空間

京都市内は「オーバーツーリズムだ!」という声が聞かれてずいぶんと経ちます。
新型コロナのパンデミックと、外出自粛などがあり、いったん、観光客も減って、ほとんどいなくなった時期もありましたが、コロナウイルス感染症が感染症法の5類に分類されるようになった頃から、増えてきました。
時々、仕事でタクシーに乗ることがありましたが、コロナ自粛の真っ最中は、売り上げ金額と、補助金で支給される金額と、どちらが多いか、くらいの時期でもあったそうで、他の業種に転換された方もずいぶんいらっしゃるようですが、そういう話もずいぶんと遠くなるくらい、観光客の数が増えているようにも見受けられます。
クリニックは京都市の中心部にありますので、仕事終わりに街中を歩くと、観光客が多いなあ、と感じることもしばしばです。

「京都のオーバーツーリズムだ!」という話については、「そういう声があるが、まだまだ、世界的な観光地に比べたらたいしたことはない…」なんて説を書いておられるのを見かけました。いわく、ベニスなんかだと、住民の数倍の観光客が来ているのだそうです。

グーグルAIさんにお尋ねしましたらば、

「ベニス(ヴェネツィア)は、約5万人の住民に対し年間約2000万人の観光客が訪れる、住民対観光客の倍率が約400倍という極めて深刻なオーバーツーリズムの状態です。」

なんと、数倍どころか、400倍、だそうです。

ちなみに、同じくグーグルAIさんによると

「京都市の人口約143万人に対し、2024年の外国人観光客数は約1088万人と急増しており、特に中心部(上・中・下京区)では住民の約39倍の観光客が訪れる過密状態となっています。」

という話になっているようです。京都でも40倍近いのだとか。へええ。たしかに人口比でいうとベニスの状況と人口比で10倍くらい違うようですし、実数としても、ベニスの半分くらいだそうですから、まだまだいける…、って言いたくなるひとがあっても仕方ないのかも知れません。

とはいえ、大きな荷物を抱えてバスに乗ってこられると、本当に乗り降りが大変です。生活の路線と、観光の路線が重なりますから…ねえ。
ギュウギュウに詰め込まれると、もうちょっと、場所を譲って欲しいものだと感じたりするわけです。

ずいぶんと前の話になりますが、以前、朝の通勤電車の中で、言い合いをしたことがありました。

相手は、通路の奥の方に立っておられた方でした。もうちょっとそっちに詰めてくれたら…。その向こう側は余裕があって、誰も立っていないのに…と思っていたのですが、その方、ご自身の「領地」を維持しようとされているのか、なんだか、ことさらに、鞄などがこちらにぶつかるような気がするのでした。
(そっちに空間があるのだから)「もうちょっとそちらに寄ってもらえませんかねえ?」なんてことを、もうちょっとキツく言ったのだと思います。わたしも青かった…。
すごい勢いで反論が来ました。「だったらお前が!!」みたいな話でした。

え?なに?わたしが悪いの?

思いがけないほどの攻撃性を感じて、ちょっと挙動不審になってしまったのを覚えています。
しばらく、その事が心に刺さったトゲのようになり、ずいぶんと考えていたものでした。

今、振り返って考えてみると、その方の「じぶんの守る範囲」というのが、つよいこだわりとともにあったのかもしれない、と思います。
公共の空間で、そういう「守る範囲」がやたらと広い、っていうのは、それはそれでちょっとはた迷惑な話でもあるのですが、まあそれはひとまず措いておいて。
で、その方にとっては、ギュウギュウ詰めになってくると、「自分自身の領域」が侵犯される、という世界観になっていたのではないか、と思うのです。
いくら専守防衛を任じていても、そりゃ、領土が侵犯されたなら、そこは断固として闘わねばなりません。

わたしが「公共空間の譲り合い」と思っていた、その接点は、彼にとっては、「自分の(一時的なとはいえ)守るべき領土の侵犯」だったのではないか、という想像をしたのでした。
なるほど、領土侵犯してきた相手に「もっと領土を譲れ」と主張され、さらにあたかも自分が悪いように批判されたとしたら、そりゃ、大いに腹が立ちますよねえ。

防衛の時ほど、ひとは攻撃性が強く出てくることになりがちです。だって、自分自身がおびやかされているのだから。

この「自分自身の領域」というのは目に見えませんから、このエピソードの解釈は、わたしが、わたしの主観でやったことです。本当はぜんぜん別の事情、ということだってあるのだと思いますが、でも、こうした解釈の光を当てることで、わたしは、その方に怒鳴りかえされたことに、理由付けをして、一応の納得をすることができました。

もちろん、深掘りしてゆくなら、なぜそんなに「守るべき領域」を拡げて、なにとたたかっているのか?みたいな話もあるでしょうし、どうしてそんなに不安が強いのか?というのも分析してゆく対象になるのかもしれません。
あるいは、全然違って、虫の居所が悪かっただけ、なのかもしれないわけです。

公共の空間、というものも、けっこう難しいものです。

その中で、安心してひとに場所を譲ることができる、というのは、これも社会性とか、自分自身の安定性とかが、実現した先にある、高度な行為なのかもしれません。

バス車内も、通勤電車の車内も、かなり混み合います。冬は厚着していますから、ますます窮屈ではありますが、上手に譲り合って過ごしていただきたいものです。