「課題の分離」について

学生時代、わたしは「臨床心理学的なもの」に興味を持ってうろうろしていたのですが、アドラー、という心理学者の話を聞いたのは、そこからはしばらく経ってからのことだったと思います。精神科の師匠がアドラーの話をしてくださったのがいちばん最初だったのではないか、と思います。まだ『嫌われる勇気』は刊行されておらず、アドラー心理学は、他の心理学に比べて多少マイナーだったのか、少なくとも、当時のわたしの視界には入っていませんでした。

ところで、アドラー心理学を日本に導入されたのは、野田俊作氏なのだそうです。氏は、アドラー心理学を日本で実践するにあたって、親子関係に焦点をあてたプログラム(現在はパセージ、というプログラムが実践されています)を作られたのだそうですが、そのプログラムの冒頭にあるテーマが「課題の分離」でした。

親子関係の問題、というのは、親の視点からすると「子育て」の中に出てくる問題、と言えます。
そして、親の悩みごとの中には、「子どもが自分の思いに反する行動をしている」というのが、しばしば出現するわけです。

「子どもが言うことをきいてくれない」とか「勉強しなければいけないのに、勉強しない」とか。

それを「親の」悩みごと、困りごと、と考えている方がけっこう多いのですが、勉強しなければならない(…か、どうか、本当のところはまあおいておくとして)のは、誰なのか?というと、これは、「子ども」ってことになります。親自身も勉強したければ、すれば良いのですけれど。

では、「勉強しなければならないところで、勉強しなかった」場合に、その「結果」を誰が引き受けるか?と言うと、これも「子ども」っていうことになります。

アドラー心理学では、「子どもが勉強しない」ことの結果は「子ども」が受け取る、と考えますから、「勉強する」というのは、子ども自身の課題である、という分析になります。どうして、親が、「自分の課題ではないこと」に悩まなければいけないのか?って、聞き返すような話になるわけです。「他人の課題」を、本来それに取り組まなければならない当事者じゃない人が、ヤキモキしてもダメです、というのが、課題の分離、です。

いったん、これは子どもの課題ですね、ということで、分離した上で、親子ですから、助け合いはあっても良いわけです。なので、子どもの課題を、親が手助けする形の「共通の課題」にしてゆくことは可能です。とはいえ、共通の課題にするためには、当事者同士の同意が必要です。

つまり、子ども自身が、自分の課題であることを認識して、その上で、(その一部分を)親子共通の課題にする(たとえば「毎日宿題があるけれども、これに取り組むのを忘れてしまうので、夕方の決まったタイミングで「宿題終わってる?」と声をかけて欲しい」みたいな形で親に手助けを求める、というのは大変上手に構造化された要望です)ということになります。

子どもの課題を取り上げて、親だけで解決してしまう、というのは、子どものあり方に対する尊重に欠ける行為である、ということになります。このあたりは「縦の関係・横の関係」という、アドラー心理学の別の概念も入ってきます。これもまた実践するにはそれなりに難しい考えです。

こうした「課題の分離」をきちんとする、という姿勢は、決して親子関係に限ったものではありません。臨床心理のカウンセラーとクライアントの関係も、同じように課題をきちっと分離することが求められます。

逆に言うと、心理学のテクニックを駆使すると、わりと容易に、他人の判断や決定に介入することができる、という怖い側面もあったりしますので、こうした知識や技術を伝える時に、専門家としてのあるべき姿勢とか倫理観としても大事なポイントなのだと思います。

「課題の分離」を行って、子どもの課題は子どもに任せる、というのは、「放任する」こととも違います。相手が、課題に取り組むだけの力があることを知っていて、自分自身で解決してゆく経験を、本人がする、というのがとても大事なわけです。そして、それを「代わりに解決する」というのは、せっかくの経験を、親が「奪ってしまっている」と言うこともできるわけです。

課題の分離には、他者への尊重のまなざしが含まれているし、含まれているべきだ、と、わたしは考えています。