いったりきたり

最近、般若心経の解説本を何冊か立て続けに読んでいました。

なぜ祈りは届かないのか

最近、いろいろとご縁が重なって、仏教に関する本をいくつか続けて読んでいます。仏教の説明されている本にも、本当にいろいろあるんですよねえ…。 仏教の中で、特に日本…

般若心経というのは、600巻もある、という「大般若経」というお経の「エッセンス=心」の部分を抜き出した、いわば、まとめ本みたいなお経なのだそうです。
そして、その中心的な考えが「空(くう)」なのだ、ということになっています。

ハッ!600巻のお経が一文字で代表されてしまった…。そんなので良いのでしょうか…?

最近は「コスパ」とか「タイパ」とか言われるようになってきて、映画を早送りで観るのだ、とか、そういう話が増えて来ています。

最終結果だけわかれば良い、という考え方でいくなら…そうですねえ。あと50億年くらいすると、太陽がどんどん大きくなってきて、地球も飲み込まれてしまうのだそうです。その頃には何もかもが滅んでしまっているでしょう…。

…ちょっと話が大きくなりすぎました。

昔、タロットカードを使って、いろいろと占いをしていたことがありました。自分自身のことを占うわけですけれど、あるとき「究極、わたしの人生ってどうなるの?」ってカードに尋ねたことがあります。
ちゃんと最終結果、出してくれました。

「さいごはね。死ぬよ」(死神、というカードがあります。それが「最終結果」として出たのでした)

…うん。間違いないや。

じゃあ、どうせ死ぬのだから…と、人生を投げやりに生きる、ということだったり、あるいは「今でも将来でも一緒」と早めに人生を切り上げたりする、ということで良いのでしょうか?
仏教の教えとしての「空(くう)」があまり強調されると、今生きていることも、あまり意味が無い、というような雰囲気になってゆきます。「どうせ全ては泡沫の夢」というわけですから、ちょっとシラケる感じになるのかもしれません。
でも、シラケた人生を送ることを、仏教が推奨している、というわけでもなさそうです。
むしろ、喜怒哀楽を酷使(?)して、人に関わることなどを良いこととしている面もあります。

「明日のことは知らねども、今日のわざとて明日の米とぐ」という道歌をよんだことがあります。どこでよんだのか、本当に忘れてしまって、時々インターネットで検索するのですが、ひっかかりません。どなたか、見つけたらぜひ教えていただきたいものです。

仏教の「いま、ここのいのちを生きる」ことを大事にする、という中には、「明日、自分がどうなるか」は勘定に入れていない、というところがありつつ、それでも、今日の日常の業務として、明日の準備をすることが、当たり前になっている、ということもあります。

ちゃんと、日常をきっちりと送っていくことも、だいじ。
日常の中に埋没してしまわずに、「これもまた空(くう)」と念じることも、だいじ。

ひとさまの苦難を見て、心を痛め、なんとかしてあげたい、と思う心が「菩薩の慈悲」になるわけですから、とても大事な思いです。
が、同時に、「ひとさまの苦難はひとさまの苦難」です。自他の弁別をつけて、他人の課題を奪ってしまわないように、切り分けをする、というのも、仏教の教えの中にあります。

そこ、両立しないじゃない!って言いそうになるのですが、どちらか、ではなくて、時に応じて、いったりきたりする、ということが大事なのかもしれません。

お釈迦様の話の中に「筏を作って、川を渡ったなら、そこに筏は捨ててゆきなさい」という話があるのだそうです。この場合の「筏」というのが、仏教の教えに該当するのだ、ということだそうで、いったん、何らかの形で役に立ったから、と、いつまでもその教えにしがみつくのではなくて、それすらも手放しなさい、ということだと書いてありました。

そういう意味でも「いったりきたり」が大事になってくるのでしょう。

武術家の甲野善紀氏は、ご自身がその道に進まれた理由を「運命というのが、完全に決まっているものなのか、それとも完全に自由なのか」という命題についてあるとき「その両方だ」と直観された、それを自分自身の経験の中で見極めてゆくためだった、と述懐されています。
完全に決まっているなら、努力は必要ないじゃないか、という言い方もある、けれど、そうじゃないのだ、と。
言ってみるならば、台本が決まっているお芝居みたいなものが人生で、そのお芝居を演じているのがわたしたちなのだ、ということで、シラケた演技では、見ている人達にもそれが伝わるのだ。だから、決まった台詞で、決まった動作だけれど、そこを精一杯演じるのがわたしたちの人生を良く生きる、ということなのだ、と、そのように言っておられます。

人生が運命づけられていて、同時に完全に自由である、という、その両方をいったりきたり。
きっと、仏様の世界では、「両方をいったりきたり」じゃない形で両立していたりするのかも知れません。
凡人は、いったりきたり。それを迷い、と呼ぶのかもしれませんが、生きている間は、それなりに迷いつつ、人生を楽しむ、ということも、きっと、なにかの意味があるのだろうと思います。