お手柄はどこに行く?

先日もちょっと書きましたが、わたしは、自分の診療で「治した」という実感をあまり持っていません。

何かの事情で、元気になっていらっしゃった方には、「良い漢方薬を見繕うことが出来た!」くらいのことを思います。

ひとには、本来元気になる力があるのだろうと思っています。
それを昔は「自然良能」とか、「自然治癒力」という言葉で呼んでいたりしました。
漢方の中には、じつは、「自然治癒力」という表現はありませんでしたので、どこか近くの領域から紛れ込んできた言葉なのだろうと思っています。

千葉古方の藤平健先生と同じ時代に、小倉重成先生という方がいらっしゃって、『自然治癒力を活かせ』なんていう本を残しておられます。今でもオンデマンド版が販売されているようです。

小倉重成氏のこと…
なぜそんなことを知っているか?っていうと、以前本を見つけて、入手したからです。
院内に置いてあります。

小倉先生は、古方(『傷寒論』や『金匱要略』に出てくる漢方処方)が効かなくなってきたのは、食生活が変化してきたからだ…という説をおっしゃって、粗食と、運動を積極的に取り入れた指導をなさっていたようです。このあたり、ひょっとすると桜沢如一のマクロビオティックの影響があったのかもしれない、なんてわたしはコッソリ考えているのですが、千葉大学のウェブサイトでは氏の実践を振り返る中で「食養」という言葉が用いられていて、玄米菜食、と書いてあります。

ずいぶんと脱線してしまいました。

自然治癒力、というのはともかくとして、漢方では人の生命力をあらわす表現として、「気」というものを取り扱っています。
この「気」を、たとえば、気功などをやっておられる方は、動かしてゆくわけですが、いろいろなタイプの方があります。
外気功といって、弱っている人に気を外から注ぎ込むような操作をする場合、これをやって短命になる気功師さんが一部でいらっしゃる、と言われています。
そういう方は、ご自身の「気」を振り絞って、出しておられるのでしょう。

わたしは、ずいぶんと前に、「自分の気を送るのではなくて、他所から受け取ったものを、自分を通して伝えるのだよ」ということを学びました。
イメージとしては、水道管です。
前者のイメージは、どちらかというと、練り歯磨き粉みたいな感じでしょうか。
水道管なら、自分自身は疲弊しません。
むしろ気が巡る形になりますので、自分自身もずいぶんと調子が良くなることだってあります。

そんな形で気を動かす時の、触れ方も、これまた、別の先生に教えていただきました。

触れるだろ?そしたら、その先で、その人の身体が動いているだろう?それを観察しつつ、動きがおさまるのを待つんだよ。

最近は、だいぶ予約もいっぱいになってきていますので、なかなか、動きがおさまるところまで待つ余裕がなくて、一段落したところであとはご本人におまかせ…としていますが、それでも、「そのひとの本来のあり方を取り戻して貰う」というあり方は変わっていません。

ですので、ご自身のあり方が整理されてきたら、自然と「良くなる」のだろうと思います。
その整理に、漢方薬が有効な方、あるいはわたしのお声かけが有効な方、もしくは施術・鍼が有効な方がいらっしゃるのでしょう。
とはいえ、いずれも、ご自身のあり方を見つけていただいて、そちらに戻っていただくのは、ご本人の力です。

なので、漢方薬が効いた(ときどきあって、処方したわたしがビックリします)ということはあっても、それがわたしの診療の腕前のおかげだ!と胸をはる…わけにはいかない、というのがわたしの心情で、そういう意味では「いつの間にか、なんだか、良くなっていらっしゃった」というのがわたしの理解です。

その「いつのまにか、なんだか」のどこかに、ウチのクリニックに来て頂いたことが良かった、というのであれば、それはそれでありがたいことではあるのですが。