ことばにできること・できないこと

昨年の8月末からはじめたブログですが、ここ一年、つらつらといろいろなことを書き綴ってきました。
まだもうしばらくは、ちょくちょく更新しつつ、情報発信をしてゆきたい…と考えていますので、お付き合いをお願いいたします。
さて。先日も「ものがたり」の話などをしてきました。
今日は「ことばにできること」という話をします。
このブログそのものが、「文字」によって成立しています。もちろん挿絵みたいなものを使うこともありますし、それから、動画なんかを参照することだってあります。だから、そういうメディアを含む、という話になりますが、それでもやっぱり、言葉が中心にあります。
「はじめに言葉があった」というのは、どこかの聖書の冒頭ですが…かれらは翻訳を間違えた、ということになっているようです。はじめに在ったのは「道理」とか「真理」というようなものでした。秩序、でも良いのかもしれません…。
はじめには、ことばは無いのです。でも、モノの性質というのはありますし、その性質や流れの方向、引き寄せ合ったり、反発したり、というようなモノの道理、というものがあります。
それらを、きっちりと言葉にまとめ上げる、ということは、存外、けっこう難しい。
ことばにしてしまえたものごと、は、言葉としてパッケージに包むことができたもの、です。
パッケージになれば、ひとに伝えることが出来ます。もちろん、その伝わったものが、そもそものオリジナルとまるで一緒か?という話になると、ちょっと難しいですが、誤解の余地も含めて、わたしたちはことばを使います。
クリニックの診療を拡大してゆくためには、わたしと同じこと…少なくともある程度似たようなこと…ができる人手が必要になります。そのためには、わたしの診療を、定型化して、何らかの形で言語化してゆかねばなりません。
最近はAIも賢くなってきていて、動作における暗黙知を言語化してゆくことが出来るようになっている…らしいですから、ひょっとするとそういう作業を噛ませることで、わたしの診療も、コピーできる時が来るのかも知れません。
とはいえ。今はひとりで好き放題やっていますから、毎回、やっていることが異なります。
時々「以前やってもらった、あれが、とってもよく効いた」ということをおっしゃってくださる方があります。ありがたいことですが…うん。あれ、ねえ…と遠い目をします。
何かをやったことは確かですし、それがその時、良かれ、と思ってやっているのも事実です。
カルテにはそれなりに、何をやったか、ということを残している、というのも間違いないのですが、以前のアレ、とまるっきり同じことを…と期待されると、どうにも、ちょっと。同じことを同じようにできる自信がありません。
診療の型がまだまだ定まっていない、ということもあります。
融通無碍、と言えば格好良い気がしますねえ。あるいは臨床の即興性、とでも言いましょうか。
わるい言い方をすると「気分で変わる」「ムラがある」というような話になるのかもしれません。
こうした一回ずつの診療におけるブレの理由や判断基準は、まだまだ、ことばにする、ということが出来ていません。こうした、ことばになりづらいところに、何か、勘所とでもいうような「コツ」があるようにも思います。
この「コツ」をわたしがつかんでいる、という話でもありません。日々診療しつつ、コツらしきものを、手に入れようとしている真っ最中なのだと思っています。