ただしいことの弊害

「世の中にはただしいことがたくさんあるんです」というのが、東山紘久先生の言葉でした。
口癖になるほど、繰り返し…だったかどうかはわかりませんが、そんな話をしばしば聞いた覚えがあります。
そんな、ただしいこと。世の中では、わりと、単純に「ただしいことはひとつ」と考えられることが多いように感じます。
某少年探偵も「真実はいつもひとつ!」ときめセリフを言っているようですし…。
そんなモヤモヤを「マルバツ式テストの影響」と題してブログに書いたことがあります。
世の中、試験の結果が「正解」だったか「不正解」だったか、が重大事項になってしまっている子どもたちがいるようです。
生き物が生きてゆく、ということは、もう少し「試行錯誤」が多いように思われるのですが、最近はそういった試行錯誤すら嫌う、というひとが増えているのかもしれません。
以前、総合病院の産婦人科で働いていた時には、時折、臨床実習と称して、医学部の学生さんが見学にやってきていました。
一応、教育的な効果…というものを期待して、いろいろと話しかけるわけですが、とある学生さんは、何を尋ねても、返事をしない、という奇妙な行動をされていたのでした。
「正解・不正解はないから、思ったことを言ってみてくれ」と伝えても、その先に言葉が出てこない。本当に、どうしたものか、と難儀したのを今でも覚えています。
その後、看護学生の教育に携わった時にも、質問は小テストの時に、自分が選んだ選択肢が正解じゃなかったのは何故か?これも正解じゃないのか?点数がついていない…という、なかばクレームに近い内容と、そして「本番の試験ではどんな問題が呈示されるのか?」という趣旨の確認ばかりでした。
昔は「先生が言っていたこの話、ここでは別の書き方がしてあるのですが?」とか、「こうした問題をどう考えたら良いのかヒントをください」というような質問もあったのですが…。ずいぶんと時代は変わってしまったようです。
外的な基準があって、それに自分を沿わせる。
そんな形で評価を得ることが日常になってしまっているのでしょうか。
もっと反逆したら良いのに…と思うこともあるのですが、試験の解答で反逆し、反逆者であると認定されると、点数が悪くなります。試験の点数が悪いと、進路に差し障りが出てきます。
そういえば、わたし、漢方専門医の認定試験を受けた時に、面接官の先生と喧嘩じみた言い合いをしたことがありました。
ああ、これで認定されなかったかなあ…とやけっぱちになったまま帰宅したのを覚えています。ありがたい事に、そうした口喧嘩?言い合い?によって、心証が悪くなって、試験を落とす…という話にはならなかったようですが…。
その後、わたしもそれなりに従順なフリをするようになりましたので、今の若い方々は(心で思っていることはともかくとして)身の安全をはかる目的で、従順なフリを続けておられるのかも知れません。
もう少し、「正しいとか正しくないとかを超えた思索を…」と言いたいところですが、これもなかなか難しいようです。
なにせ、学生さんたち、とても忙しいのだそうで。
課題が終わらない、アルバイトが遅くまである、などなどで、本当に自由になる時間がなさそうです。
答えのない物事を、ああでもない、こうでもない、と考える時間なんて、学生時代くらいじゃないと、なかなか取れないようにも思うのですが…。
ゲームについて、わたしが学生の時に、講義しておられた先生が「最近はゲームの完成度が高くなって…」という言い方をなさっていました。
完成度が高くなって、消費者にばかりなるようになった。生産者になってみようか、という若者が減った、というような言い方だったように記憶しています。
新規参入しても歯が立たないかもしれない、と思う領域には、あまり新規参入しない、という心理機制が働く…ということがあっても不思議ではないのですが。
正しいことで埋め尽くされた社会で「安全」に配慮され続けていると、人として、身を守る才覚はどんどん鈍っていくのかもしれません。
昔読んだ戦争ものの小説では「良いか、戦闘機の計器なんてのは、メンコだと思え」というような話が書いてありました。ちゃんと自分の目と体験で確認しなければ、計器は信用ならない、という話でした。
その後読んだ本には、「飛行機乗りにはバーティゴという『勘違い』が発生することがある」と書いてありました。
なんらかのタイミングで、地球がある側と、空がある側を逆に認知してしまうことがあるのだそうです。そういうときには、飛行機の計器を確認することができるかどうか、が生命に関わるのだそうです。
計器を信用しきってはいけない、というのも、当時の経験に基づく注意事項であり、また、自分自身の体験を信用しきってはいけない、というのも、最近の経験に基づく注意事項なのだろうと思います。
そう考えると、正しいことばかりじゃなくて…と言っているわたしの感覚が古いのかもしれません。
ですが「正しさ」じゃないところを見てゆくことが、やっぱり大事なんじゃないか、と、ちょっと古い頭のわたしは、そのように考えるわけです。










