ひとさまの人生に触れる

昔、助産師さんが「お産というのはいのちの現場だ」という表現をされていたのを見かけたことがあります。
生まれてくるタイミング、というのは、ある意味で「いのちのはじまり」でしょうから、まさに「いのちの現場」と言えるのかもしれません。
わたしはちょっとスレてますので、ひねくれた反応をした、というところまで覚えています。

「いのちの現場、っていうけれど、わたしたちは今ここで常に生きているわけで。だから、お産だけが「いのちの現場」じゃないよ。わたしたちの生活すべてが、本当はいのちの現場なのだよ」

生き死にの瀬戸際、という意味で言うなら、ちょっと違いますが、ひとが生きる、ということは、その境界線上だけで起こっているわけではありません。
なので、医者が(あるいは助産師が)いのちの現場に立ち会っている、というのは、きっと間違いじゃないのだと思いますが、わざわざ医者や助産師に限ることもなく、「誰もが」いのちの現場に立っている、わけです。
つまり「常在いのちの現場」なわけです。なんだその常在戦場みたいな言い方は。

それでも、診察室、というところには、なんというか、人生のハイライトが集まってくる、ような気はします。

以前どこかで書いたことがあるように思うのですが、医者という仕事をしていると、なにかの拍子に、人生相談みたいなことがはじまることがあります。

医者といっても、ひとりの個人でしかありませんから、そんなに智慧があるわけでもない…ように思うことが半分。
もう半分は、やっぱりそういう相談を真面目に考えていると、それなりによい智慧が出てくることもあるわけです。
じゃあ、どうして、そんな時に「よい智慧」が出てくるのか?というと、きっと、それは「人生経験」の数が増えているから、なのだろうと思います。

普通の人生っていうのは、自分自身の経験が「人生経験」ってことになります。

が。

相談に来てくださる方の人生を、かいつまんだ形であっても、相談にのる、という形で追体験すると、多少の人生経験になる。

昔はお坊さまが、わりとそういう人生相談にのっておられたのだろうと思います。
お坊さまですから、ご結婚されていない方も多いわけですが、それでも夫婦関係の悩み、などもお答え頂ける、というのは、言ってみたら、そういう「相談」の経験値が積み重なってきたから、ではないか、と思うわけです。
もちろん、ぞんざいな相談とその応対を繰り返したところで、それほど経験値が積み重なるわけではないでしょうから、その時、そのときに、しっかりと向き合って、真面目に考える、ということも大事なことなのだろうと思います。
そうやって、相談に来てくださった方と、一喜一憂することが、ひとつの経験になっている、医者として、何かを申し上げることができるようになっているとするなら、それは、今までに相談してくださった方々の経験があるからだ、と、そのように思います。

ひとさまの人生は、身体に積み重なって出てきます。

それに触れることができている、というのは、本当にありがたいことなのだなあ、と思うわけです。