ひとの感情に敏感

にしむら漢方内科クリニックは、2024年の開業当初から「検査で異常はないと言われた方」「病名がつかない方」に、当院にいらしてください、という形で広報…という意味合いで、ウェブサイトの文章を作っています。
昨年(2025年)ご来院くださった方の中にも、ずいぶんな頻度で「ともかくしんどい」とおっしゃる方がありました。
しんどい…医学的には「倦怠感」と呼ぶことも多いのですが…については、開業ちょっと前に開催した健康教室で、一度お話をしたことがあり、そのあたりも文章にしていた…ような気がします。
漢方的な判定では「気血両虚」と呼ばれるような病態だったり、「気虚」だったりすると、やはり「しんどい」という症状が出てくることがあります。
これは、乱暴な物言いをすると、いわゆる「ガス欠」の状態です。まずはいろいろと「気」や「血」を補う…と言いたいところですが、「血」については、胃腸の調子が悪いところで補うと、消化器の症状が出てきますので、まずは「気虚」の「気を補う」という治療を考えます。漢方薬で言うなら「補剤」と呼ばれる分類の処方を使うことが多くなります。
具体的には「人参(にんじん)」や「黄耆(おうぎ)」と呼ばれるような「補気薬」を含む処方がそれにあたります。ざっくり「参耆剤(じんぎざい)」と呼ぶこともあります。有名な処方で言うなら「補中益気湯(ほちゅうえっきとう)」とか「六君子湯(りっくんしとう)」などが挙げられます。また「気血両虚」には「十全大補湯(じゅうぜんたいほとう)」とか「人参養栄湯(にんじんようえいとう)」などを用いることもあります。
いずれも有名な処方ですから、どこか、他の医療機関を受診されている方の場合は、当院を受診されるまでに、こうした方剤を処方されている方もけっこういらっしゃいます。
こうした「しっかり補う」系の方剤を処方されていて、内服しているにもかかわらず「しんどい」とおっしゃる方の場合、実は身体はそれほど消耗されていない、という事もあります。
以前も東京の大雪、というエントリで書いています。
アタマの限局的な疲れによる「疲れ感」がつよく出てきている、という状態です。
もちろん、こうしたアタマの疲れが、気血の消耗につながる方もありますから、その部分はしっかりと補うことが大事になってきます。
こうした、神経的な消耗の、その原因がどのあたりにあるのか?ということを診療の中でみてゆくわけです。
当院の診療での印象ですから、全体の割合と比べると偏りがあるのかと思いますが、こうした倦怠感をおっしゃる方の中に、「ひとの感情に敏感」な方が多いような印象があります。
そして、その感情になんとか対処せねばならない…という切迫感を抱えておられる。
関わる人が多ければ多いほど、そして、不機嫌なひとが多ければ多い程、対処せねばならないひと、対処せねばならない感情、が増えるわけですから、本当に消耗がどんどんと増えてゆきます。
社会集団という視点で見るなら、社会集団の運営を円滑にしてゆく、という意味で、他人の感情を平穏な形で維持したい、と努力する方が多いのは、ありがたいこと、と言えるのかもしれません。
つまり、こうした、敏感な方が尽力くださることで、集団の中で不機嫌なひとが減る、という効用があると言えるのかもしれません。
ところで。
アドラー派の心理学では、感情というのは「世界を自分の思い通りに動かすための道具」であるととらえています。
つまり、不機嫌、という感情をもって、自分の思ったとおりにしようという行為です。
他人の不機嫌さに対して敏感に「なにかしなくては!」と反応してしまうひとは、不機嫌という感情を振り回している相手に「良いように使われている」ということになります。
ひとの感情…特に「不機嫌さ」に敏感になっておられる方は、ひょっとすると、若い頃に「不機嫌なひと」に振り回されてきた経緯があるのかもしれません。敏感にならねば、自分自身の安全が確保できなかった、というような歴史もあるのかもしれません。
そういう幼少期に、センサーをひたすら育ててきた、ということがあっても、不思議ではないと思います。
が、大人になって、幼少期の「センサーが鋭敏でなければ生き延びられない」環境から離れてからも、鋭敏になりすぎたセンサーを抱えて生きてゆくことになります。
出来ることならば、全ての方が、もっと穏やかな家庭環境で育っていただきたい。過剰に他人の機嫌を伺う必要がない、そんな家庭で育つことで、鋭敏なセンサーに振り回されることのない人生を送って頂きたい。
そして、周りのおとなの方々が、自分の思いを通すために、不機嫌を振り回す、ということが無いような社会になって頂きたいのです。
とはいえ、現実には、過敏とも言えるセンサーを抱え、それに振り回されて消耗されている方があります。
そういう方にお伝えするのは、まずは「自他の分離をすること」です。
そして、「他人の感情は他人のものであるのだから、それを『放置』すること」です。
他人の感情を、外から別のにんげんが何かをすることで、穏やかにする、なんていうのは、そもそも、現実的に言って、いろいろと問題があります。
いちばん最初に指摘できることとしては「ひとの感情もそのひとの行動」なわけです。
ですから、「わたし」が思ったような感情をその人が持つように、という外的な働きかけは、感情という行動に対する介入と、他者の行動の操作に該当します。
もちろん、もともと不機嫌さをもって他人を操作しようとしているひとは、それはそれで極めて不適切な行動だということもご理解ください。
そして、不機嫌さを解消してもらうことを言外に含んだ形で、他人を思い通りに動かそう、という行動自体が、極めて未成熟な行為であり、共同体に貢献するどころか、共同体の共有資産を食い潰すような危険な行動である、ということになります。
そういう行為に対して、対処を行う、ということで、不機嫌を振り回すひとにとっては、「感情を使うことで、期待していた『報酬」が手に入った」という成功体験を与えることになってしまいます。これが繰り返されることで、「感情を使えば思った通りに『報酬』が手に入る」という認知を強化しかねません。これは、社会的に未成熟な行動を容認し、さらに強化してゆくという可能性があり、さらに調子に乗って不機嫌を表明するようになってしまうかもしれません。
ひとの感情に敏感で、対処することを続けている側の方にとっても、ひとの感情を優先することばかりが積み重なることで、自分自身をないがしろにしてしまう可能性があります。
そして、行き着く先は「疲労困憊状態」ということになってしまいがちです。
感情…とくに不機嫌を振り回すのではなくて、ちゃんと理性的に協力を呼びかけて頂きたいし、その理性的な協力要請には、理性的に、かつ建設的に対応して頂きたい。
その一方で、感情を振り回してひとを動かそうとしたり、あるいは感情を振り回しそうなひとに忖度したりする形で、物事を進めていくことを減らして頂きたいものです。
個別の話で言うなら、大きすぎる敏感な感情センサーを抱えた方は、なるべく、そのセンサーに振り回されないように、少しずつ調整をしていって頂くのが良いのだろうと思います。
そのために必要なのが「心理的安全性」ということなのだろうと思いますが、これはまたいろいろと大変な話になりそうですので、またいずれどこかで考えることにいたします。














