ひとの言葉

ボディートーク主宰の増田明氏は、子どもミュージカル(ミュージカルひろば星のこども)も主宰しています。もう、かれこれ30年以上にわたって、大阪で毎年のようにクリスマス前後に公演を続けて来たのですが、今年(2025年)の年末の公演で、一区切り、ということになりました。
今年の…最後の演目は「アラビアンナイト」。その長大かつ多彩な物語の中から「アリババと40人の盗賊」を舞台に仕立てました。
この舞台ではアリババと、その弟ハッサンのおじいちゃん、という存在が、幽霊の姿であらわれます。
「アリババ、ならびにハッサンよ…!」とドライアイスの煙にまみれて出てくるおじいちゃんは、「ひとの言葉をあてにするでない。ひとはいい加減なことをいうものだ」と言い残して消えてゆきます。
以前、「自分軸と他人軸」という形でも書きましたが、ひとさまの言うことに振り回されると、本当に大変なことになります。
ところで。
アドラー心理学では「課題の分離」というテーマが、わりと早くに出てくる、という話も以前しました。
課題を分離するには、まずは自他の境界をハッキリさせる必要があります。つまり、どこまでが自分の範囲なのか、ということがハッキリしないことには、自分の範囲に入ってきている課題なのか、そうじゃないのか、ということも曖昧なままになるからです。
どうして、わたしたちは(と、いきなり主語が大きくなりましたが)自他の境界をわざわざハッキリさせる必要があるのでしょうか?自分は自分で、他人は他人、という自明のことが、どうして、強調されなければならないのでしょうか?
そんなことを、少し考えてみました。やっぱり、乳幼児期の体験が大きいのかも知れない、と思います。
つまり、乳児期のこどもは、母親と一緒で「ひとセット」になっています。
・乳児の間は、肌を離すな
・幼児の間は、肌は離しても手を離すな
とも言われますが、この時期のこどもは、母親までがある種、自己の延長にあるような感覚があるのかもしれません。
そして、幼児期を経て、こどもは、母から離れ、ひとり立ちしてゆくわけですが、気持ちの上ではいくつになっても「臍の緒が母に向かってくっついている」ような思いを持ち続ける人も少なくないようです。
それほどに、この一体感の喪失は、大きいのでしょう。
この喪失感をそのままにして、自分の輪郭を確定しなかったような場合に、どうしても自他の境界が曖昧になるのかもしれません。
あるいは、子離れできなかった親の方が、境界線を侵犯する、ということもあるのかもしれません。これはこれでつらい話になりますが、ひょっとするとその親も、さらにその親に境界線を侵犯されたのかもしれません。
とはいえ、近代的な意味での「個人」が成立したのはずいぶん最近になってからのことですし、個人主義と言われるヨーロッパでも、神の存在なしに、個人を確立する、ということには大変な作業が必要だったと指摘されています。
日本では、かなり境界線を曖昧にしたままでひとびとが生きていたのかもしれません。
個人の境界線が曖昧なままでも、「共同体」がしっかりしていたら、平穏な生活ができたのかもしれない、と思います。
今は共同体が失われてしまっていますから、あまりひとさまの事に、自分の価値判断で口をはさむことはやめておくのが良いのだろうと、そんなことを考えつつも、診療にいらっしゃった方には、ついつい課題の分離をお薦めしている、そんなお節介焼きをしています。