わたしとは何か

「わたし、ってのはさ。ほら。街中に地図がかかっているだろ。その地図にある『現在位置』の『やじるし』みたいなもんなんだよ」と、以前、養老孟司先生がおっしゃっていました。

なんだか、禅の公案みたいな雰囲気でしたが、しばらく経ってから、脳科学者の先生の話を聞いて、なるほど。輪郭のことだったのか、と思ったのでした。

脳科学者の脳が壊れた時

ジル・ボルト・テイラーは、脳の研究者でしたが、脳卒中を起こした時の経験をTEDという会で講演しています。その時、自我の境界がとけて、世界と自分の区別がなくなったのだ、という話も出てきています。これはある種の「解脱」と良く似ているのかもしれません。

仏教ではちょっと怖いような話があります。

旅の途中で、二匹の鬼の争いに出くわしてしまった男の話です。

男は、一匹の鬼が死体を持ってきたのを見ましたが、もう一匹の鬼が、その死体を自分のものにしようとして、諍いを起こしたのでした。「そこに証人がいる」ということで、引っ張り出された男は、はじめの鬼に所有権がある、ということを言いますが、それが気に食わなかった二匹目の鬼に、身体を引き裂かれます。

そうすると、はじめの鬼が、死体から、引き裂かれた部分を補充します。数回の喪失と補充を繰り返した結果、旅の男の身体は、まるまる、鬼が持ってきた死体と入れ替わってしまいました。

これで、「いったいわたしは誰なんでしょうか?」と旅の男は悩み、お寺に駆け込んでお坊さんに相談します。

お坊さんは「そもそもお前は誰でもないじゃないか」と言葉を返し、その言葉を聞いた旅の男は頓悟するのでした。

クリニックで診療をしていると、自分自身を削って、なんとか世の中の平穏を保とうとしている方がしばしばおられます。

こういう時に削っている「自分自身」の部分は、やっぱり、あまり削ってはいけないところ、のような気がします。

一方で、仏教では「我を捨てなさい」というような言い方をします。自分自身というこだわりを捨てることで、もっと大きな存在との繋がりを大事にするとか、あるいは自分自身の自我にしがみつくことで生まれる執着を嫌うとか、そういう意味なのだろうと思いますが、じゃあ、「自我の否定」が大事だといって、自分自身を削ってゆくことが肯定できるか?って話になります。

わたしは、そこは、なんだか、違うと思っているのです。

むしろ、自我からの卒業をするためには、自分自身を削ったりすることではなくて、もっと自分自身を大事にするところから始まるのではないか…と思ったりします。

自分自身を大事にする、っていうことが、自我への執着に繋がりませんか…?って疑問も出てくるところなので、難しいところですが。

現世を生きるにあたっては、まず、自分自身を大事にすることが肝心で、その先に、執着を離れる時がある、ということではないか、と思います。そして、上手に執着を離れることができるようにするためには、それまでにしっかり自分自身を大事にすることが必要なのでしょう。

フィリピンの先住民である「アエタ族」は、最後の狩猟採取民族ではないか、とされています。彼らと生活を共にしつつその文化を研究していた人類学者の清水展先生によると、本当にビックリするくらい子どもを甘やかして育てるのだそうですが、子だくさんなので、その子が少し大きくなると、弟か妹が生まれます。そうすると、親が甘やかす対象はその赤ちゃんに変わるわけです。

https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814005130.html

が、それまでの間、十分に愛情や手間をかけてもらった子どもは、それで愛情を知り、落ち着いた子どもとして成長するのだそうです。

こういう充足が、その先の人生を支える大事なものなのかもしれません。