われにかえる

わたしが子どもの頃、トムとジェリー、というアニメがありました。ネコのトムと、ネズミのジェリーが、あっちこっちでじゃれ合って、大暴れしていましいた。だいたいは、ネズミのジェリーが智慧を働かせて、ネコのトムをひどい目に遭わせる、というのが定番だったように思います。
アニメの表現として、挟まれたら、ぺたんこになる、とか、凍り付いたら、カチコチになる、とか、どこかにはまり込んだら、その形に顔が変わる、などという、強調された表現が子供心にも大変面白かったのを覚えています。
そんなアニメ誇張表現の1つでしょうか。「足下に地面が無いのに歩き続ける」というのがありました。行き先案内板の矢印を反対側に曲げられていて、崖から先になっている場所、などを、鼻歌をうたいながら通り過ぎて、空中を数歩歩いたところで、とつぜん、われにかえるわけです。そして、手足を振り回したりするのですが、飛べるわけでもありませんので、そこで、ピューウ!という音とともに画面の下に消えてゆく。そんな表現がしばしば見られました。
「あれ、気づかないままなら、もう少し歩き続けられたんじゃないか?」って思いながらアニメを見ていたものでした。
本当に気づかないまま、空中を歩く、ということができるのか?というと、そんなの無理、って話にしかならないのですけれど。
アニメの世界では、誇張された表現が用いられますが、どこか、実感がこもっている、とわたしは思います。つまり、われにかえる時、って、そういうことがあるのでしょう。
ラグビーの選手が、試合後に、ほっと一息ついたところで、あちこち痛くなってくる…で、病院を受診してみたら「ああ、折れてますねえ」と骨折の診断がつく。そんな話も耳にしたことがあります。
若い頃は「折れたらその時から痛いんじゃないの?」ってとっても疑問だったのですが、夢中になっているとき、とか、気持ちがすごく張っているとき、というのは、ケガをしても、痛みを感じづらいのでしょう。
交通事故に遭った方が、それでも待ち合わせの時間が…って駆け出すのも見かけます。事故に遭った当初は本当に神経が張り詰めているので、痛みを感じにくくなるようです。
身体としても、急に動けなくなると大変だったりしますから、当座の避難ができるように、などの防衛反応というか、安全を確保できるシステム設計でもあるのだろうと思います。
独楽にたとえられる事もあります。「一度止まった独楽は、なかなか次に回り始められない」などという表現もありました。
わたしも、過労で退職する前は、わりとハードな仕事をしていました。退職してからしばらく、今までの自分が動けていたのが不思議なぐらいに、身体が重たくなったのを覚えています。
これが「われにかえる」ということなのだろう、とわたしは考えています。
われにかえる、が無いままだと、無理をしたこと、しんどいこと、無茶をしていること、が、どんどん蓄積されるのではないでしょうか。そのまま棚上げし続けたまま、生きていく、というのは、きっと難しくて、どこかで、その蓄積されたものの帳尻をあわせねばなりません。
ひょっとすると、われにかえる暇もないまま、人生を駆け抜けることができるのかもしれませんが、なかなか現実的ではありません。休日に体調不良が出現する方の多くは、こういう形の気の張りがすごく強いのではないか、と思っています。
できたら、われにかえって、ゆっくりノンビリできる時間を確保して欲しいと思います。
休日にレジャーとか気晴らしも大事ですが、活動を入れると、それはそれで身体としては「仕事」に近い負担になりかねませんので…。