イライラの原因

漢方の診療とか、更年期のお話を伺うとか、そういうことをしていると、けっこう「イライラをなんとかしたい」とおっしゃる方があります。
イライラ、ってやっぱり「怒り」ですよねえ…。と思いながら、イライラされている場面をお伺いしたりするのですが。
やっぱり「自分が思ったように、ひとが動いてくれない」というところでのイライラ、って結構多いみたいです。
ちなみに、更年期や月経前症候群(PMS)でもそうですが、「対象が定まっているイライラ」に加えて「漠然としたイライラ」という、よく分からないものもあったりします。
なので、「他人がなにかやらかした」ことにイライラしているのではなくて、たまたまイライラしているところに「他人がなにかを」という格好の「イライラの焦点」が飛び込んできた、ということだってあるみたいです。
普段はイライラしないで済むような出来事にまでイライラして…とおっしゃる方は、意外とこの後者が混ざっているのかもしれません。
漠然としたイライラ、というのは一体どうして発生するのか…?というのは、以前記事にしていました。
もうひとつの、焦点がハッキリしている、典型的には「他人が思ったように動かない」時のイライラはどうしましょうか。
これをわたしの師匠は、「赤ちゃんが泣いて怒っている時と同じ構造だ」と説明していました。赤ちゃんって、泣くのが仕事なんて言われますが、やっぱり、泣くには事情があります。
とても興味深い現象として、CODA(Children of Deaf Adults)と呼ばれる、聴覚障害者の親御さんのところに生まれてきた赤ちゃんの話を聞いたことがあります。聴覚障害は必ずしも遺伝するものばかりではありませんから、子どもが健聴者であることもしばしばです。このCODAの赤ちゃんですが「お母さんが自分のことを見ていることを確認してから泣き始める」のだそうです。お母さんが聴覚障害があって、どれだけ泣いても、その音が伝わらない、ということを学習したら、なるべく省エネで自分の意志を伝えるためにも、泣くタイミングを選ぶ、ということがあってもおかしくはないのでしょうけれど。
つまり、赤ちゃんの「おぎゃー」っていうのは、やはり、何かをしたい、して欲しい、という表現なのだろうと思います。
そして、泣く、あるいは怒る、ということをすると、親…あるいは乳母ないし、看護者は、それに対応して、何らかの対処をしてくれるわけです。
わたしたちの世界との接点は、1番最初にそのように作られることが多いですし、この「泣いたらなんとかしてくれる」「怒ったら世の中、自分の思ったとおりになる」ということが、大人になっても、どこかに染みついたままになっているのかもしれません。
ところで、何度も書いていますが、他人は他人です。
他人の課題を、自分の課題にしてしまうのは、それは不偸盗戒に抵触する悪事であり、カルマを増やすことになりかねません。
ひとがどのように動くのか、というのは、ある意味で、その他人に委ねられていることになりますから、自分がどう思ったか、ということとは独立しています。
なので、他人は、自分の思いとは別で動くのが「当たり前」っていうことになります。そこがうっかり自分の思い通りに動いたら、ビックリする、くらいの態度がだいじです。
とはいえ、家族などになると、本当に期待をしてしまいますから、期待外れの行動をされると、どうしても感情が出てきやすくなります。なかなか課題の分離は難しいところがあります。
ところで。カブトムシの観察をしていて、カブトムシが思ったように動かない、とイライラされる方は、あまりいらっしゃいません。アリの観察をしている時も似たような話になります。同じヒトだと思うので、イライラが嵩じやすくなります。
タイプ論の話でも書きましたが、自分と同じタイプというのは、全体の中では少数です。つまり感受性も、入力に対する出力も、それぞれのタイプで異なるわけですから、自分が思ったような反応が返ってくる場合の方が少ないわけです。
そうは言っても、やっぱりイライラするわけですが、このイライラが、相手を自分の思ったとおりに動かそうとしている、という自分の欲望の出現と重なっていることを認識すると、ちょっとイライラの勢いは弱くなるような気がします。
あとは「広い縄張り」でしょうかしら。魚も狭い水槽で飼っていると、イジメが発生するのだ、と聞きました。狭いところで顔をつきあわせていると、どうしてもイライラは出てきやすくなります。お互いの縄張りがあまり重ならないように過ごすことで、イライラが回避できることもありますので、縄張りを見直していただくのもひとつだろうと思います。