サルのことは考えてはならない
精神科のお師匠さまから聞いた話です。
あるところに有名な座禅のお寺があって、そこにとある、若いお坊さまが入門しようと訪れたのだそうです。門前で数日、頭を垂れて入門の意気込みを示したら、中から、導師があらわれて、「お前は修行してきたのか?」と声をかけました。
「はい。修行には自信があります!」と即座に返答した若いお坊さま。
そこに導師が「よろしい。では今夜ひとばん、サルのことだけは考えてはならない」と言い残して、中に戻られました。
「サルのことだけは考えるな」と申し伝えられた若いお坊さま、ついつい、考えることが「サル」に近づいていきます。ひとばんじゅうサルの事を考え続けて、とうとう疲弊してしまったのだ、ということでした。
ちょっと探してみたのですが、日本語だと『シロクマのことだけは考えるな!』という書籍があるようです。あるいは「キリンのことだけは…」というバリエーションもありました。

名指しして、否定することで、かえってその名指ししたモノを直面してしまうのだ、という話でした。
野口整体の野口晴哉氏も、暗示の時の注意事項として、「否定文を使わない」ということを書いておられます。「上手くいく」という暗示はわりと成功しやすいのだけれど、「失敗しない」という言葉で暗示を入れようとすると、「失敗」の部分が強調されて入るので、そちらに引っ張られて失敗するのだ、というような話でした。
人の無意識というのは、興味深い性質がいくつかあるのだ、ということで、これも師匠にききました。
たとえば「主語がはっきりしない」。なので、他人のことを考えていても、自分のことにすり替わっていたりします。他人を呪って「あいつ、不幸になればいいのに」みたいなことを念じると、無意識の中で、主語が「自分」に入れ替わった形で「不幸になればいい」が実現されるように動いたりしかねないのだそうです。人を呪わば穴二つと言いますが、まさにこういうことなのかも知れません。
もうひとつ「肯定文と否定文の区別がつかない」。なので、「考える」と「考えない」が同じジャンルに入って来るのだそうです。
自分自身の心を整える、というか、落ち着かせるために、感情を整理していくことが必要だったりします。その先に仏教での修行、みたいなものが拡がっているのだろうと思いますが、仏教の教えの1つに「怒ってはならない」というものがあります。十善戒と呼ばれるもののひとつである「不瞋恚戒:ふしんにかい」です。
怒りを抱えている状態を否定するのか?と思われるかもしれませんが、ここも「怒ってはならない」という言葉の「怒り」に焦点があってしまっては、大変なことになります。
「好きの反対は嫌いじゃなくて、無関心」という言葉を聞かれたことがあるかも知れません。好き、と嫌い、はいずれも、対象に強く感情が揺れ動かされている状態です。かわいさ余って憎さ百倍、とも言いますが、こうした強い執着を手放してゆくことを、お釈迦様はその教えの中で説いておられるのです。
怒りにしても、「サルのこと」にしても、無理に遠ざけたり、否定したりするのではなく、それらに対する執着を手放す、というところが大事なポイントです。
師匠は瞑想のことも教えてくれました。瞑想を始めようとすると、「それは瞑想じゃなくて迷走」と混ぜっ返したくなるくらいに、いろいろと、頭に考え事が浮かんできます。うっかりそれらを否定したり、消そうとする、と、むしろ思考に捉えられて抜け出せなくなります。
むしろ「浮かんできた考え事を、笹舟に載せて、川に流すような心持ちで」と言われました。あまりそれを否定するでもなく、肯定するでもなく、そのまま手放していく。そのような離れ方ができるようになると、わりと瞑想も落ち着いてゆくのだと思います。
そして、強い執着を手放したところに「融通無碍」の世界があるのだろうと、そのように思います。