デジタルのはじまりと易経

デジタルの話をちょっと先日書いたところでした。

デジタル、って便利だし、スッキリする部分もあるのだけれど、でもやっぱり、完全にデジタルで割り切る世界観だけ、というものには、心配事もあるように思います、という話をしました。

デジタルの話あれこれ

「DX」っていう表現をよく見るようになりました。医療でもDXが必要だ、なんていう風に言われるようになってきています。DXって、わたしの世代だと「デラックス」の略だっ…

ところで、二進法というのをはじめに考え出した?のは、ライプニッツ(1646年−1716年)という哲学者だったのだそうです。はじめに、というのは言い過ぎなのかもしれません。他にも試行錯誤された哲学者さんがいらっしゃったかもしれませんが、現在のコンピュータなどで用いられている、0と1を用いた表現の基礎となる研究を結構本格的になさっていた、というのは事実のようです。

そんなライプニッツ氏はドイツの方なのですが、ちょうど二進法の研究をされているときに、イエズス会の宣教師から中国の文献である、易経の「先天図」というのをお土産でもらった、と言われています(ウィキペディアによると、1703年のことだそうです)。この図が、ちょうど彼が研究していた二進法を的確に表現しているものだった!と、ライプニッツ氏が、この図の卦に番号を振っていかれた…という話になっています。

画像はhttps://note.com/rodz/n/nda0b569c3158 からお借りしました。

デジタルの発祥は易経…ひいては中国にあるのか?っていうことになるのですが、あながち見当違いでもなさそうで、易経が大いに影響を及ぼしたようです。

漢方の勉強をしていると、陰陽理論だとか、五行論だとか、ということで、当時の中国における最先端の思想とかその思想の根幹をなす体系に触れることが出てきたりします。易は陰陽の話題を取り扱っているともいわれており(実際のところとしては、易経の本体の文章には具体的に「陰」「陽」という言葉はあまり使われていないようですが…)、陰陽理論の根幹に触れる思想かもしれない、ということで、わたしも読んでみたりしました。

ライプニッツ氏は、六十四卦を、彼の順番で揃えましたので、易経の中に出てくる順番とは少し異なります。数字と桁の変更なのですが、易経の桁の取り方では、下から順に変化していく、ととらえるので、彼が「これが1だ!」としたものは、だいたい真ん中あたりの順番になります。

易では八卦と呼びますが、八つの象徴を、それぞれ上下に並べる形で8かける8の六十四卦を作ることにしています。下から順番に積み上げますが、この6本の棒を爻(こう)と呼びます。爻が一本のまっすぐな棒であるものを「陽爻」として、途中が切れているものを「陰爻」として著します。

陰か、陽か、のどちらかしかありませんから、この部分はすっきりデジタルな形の表現です。であれば、そのまま全体がデジタルで、易の本は明快でわかりやすい…のか?というと、そうでもありません。(中国の鍼の教科書に『難経』というのもありますから、それを勉強していた学生が、隣の学生が読んでいる『易経』のタイトルを見て「そっちは易しいんじゃないか」っていう笑い話はありますが、結構難解だとされています)

日本で、「易」というと、占いに使うことがしばしばあります。むしろ、易は占いの道具、と思っておられる方の方が多いかもしれません。
易占、という形の看板が出ているところを見かけると、だいたいは、上三本の棒が陰、下三本の棒が陽、の形の卦を出しているのですが、これは「地天泰」という、陰陽和合のおめでたい卦、ということになっています。

画像は https://forestofwisdom.net/11-chitentai からお借りしました。

ところが、易占いの本によると、

あるときお父さんが病気になられた家庭があって、占いに来たら地天泰の卦が出た。これを見習いが「良い卦が出たので大丈夫です」と請け合ったが、その後お師匠さんが「この場合、父親とは、一家の中の『天』だ。その『天』が地面の下に居るわけだから、このお父さんは亡くなると読める」と指摘した。はたしてその家庭を訪れてみると、まさに一家の柱が亡くなったところだった

という記述があります。普段はおめでたい卦であっても、時と場合によっては、必ずしもおめでたい、とばかり言ってられない卦になったりすることもあり得るわけです。

表記まではデジタルですが、解釈には大きな幅があります。さらには、「易経」を英語では「The book of Change」と呼びます。易とは「変化していくこと」を意味するわけです。占いなどで出てきた卦が、変化する、というわけです。

易経の中には「窮すれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し」という文言があります。最初の表現はデジタルでありながらも、その象徴の解釈に大きな幅を残しており、かつ、それらのデジタルである部分が変化していくことを織り込んでいる、そのような思想が、易経の中心にはあるのだ、と思います。

わたしの精神科の師匠は、極意のことばとして「これもまた過ぎ去る」というものを挙げておられました。仏教的な「無常」の思想を一言でまとめたもの、ではあるのですが、易経にもその世界観が通じているように思われます。