世界を信頼する
先日ちょっと、書店で本を読んでいたら「強いロボットは歩けない」という文章が出てきました。
『弱いロボット』という本があります。

https://www.igaku-shoin.co.jp/book/detail/82127
この帯文が「ひとりでできないもん」でした。
著者はロボットの研究者。なぜかそんな本が医療とかケアとかを考える、ということで、医学書院から出版されていたのでした。そのあたり、とても面白い話があって…という、このシリーズを担当されていた編集者さんが、その思い出話を中心に、編集の話を書かれた文章でした。

『ケアと編集』白石正明
強いロボットというのは、すべてを自分でなんとかする、という態度で世界と対峙するのだそうです。
そうすると、「すり足」でしか動けないのだ、と。
一昔前のリアルロボットって、すり足でした。
そういう、難しいことを考えるのではなくて…と、『弱いロボット』には書いてあるのだそうです。
つまり、自分自身を支える、ということをいったん放棄して、世界に委ねるのだと。
世界に委ねた結果、意外と、世界というものが、ロボットの身体を支えてくれるのだ、というところに、自分自身をえいやっと、投げ出したところを受け止めて貰う、という形で、ヒトのような一歩を踏み出すことができるのだ、という話が書いてあったのでした。
ロボットの開発の話が書いてありながら、その中にある擬人法で、我が事のように想像するわけです。
人に委ねる。
自分自身を明け渡す。
世界を信頼する。
わたしたちは、きっと、生まれてから、自分の足で歩き始めるまでの間に、そのような「信頼」を、世界との間に構築しているのでしょう。
そのプロセスを、あまり覚えてはいませんけれど、それでも、世界に投げ出されてある、ということについて、物理的な世界への信頼、ということを積み上げているように思います。
まあ、先日の路面凍結、みたいなことになると、それでもスッテンコロリンと転ぶわけですが。
閑話休題。
ひとが生きるというのは、単純に物理だけの世界の問題ではありません。
ちゃんと気持ちとか心、というものがあります。これについても、ひとりで頑張るのではなくて、世界に受け止めてもらう、ということが必要になるのだろうと思います。
つまり、「ケアをひらく」というシリーズで、様々な分野の話を拾い上げつつ、それらを、ひとの心のメタファーとして読むこともできるような、そんな編集が、白石さんのお仕事であったのかもしれません。
心の部分を、そのまま委ねられる、という方もあるでしょう。
が、大人になってから、あらためて、自分自身の緊張を認め、それをいったん放棄して、世界に投げ出されてある、心細いありかたを、いったん、エイヤッと、引き受けることが必要になる、というのもあるのかもしれません。
そういえば、バンジージャンプというのは、どこかの社会における成人の儀式だった、と聞いたことがあります。
エイヤッと、中空に飛び出す、というのは、なんらかの信頼感か、諦めか…なにかしら、自分がひとりで生きているわけではない、という理解がないと、できることではありません。
そういう、まわりを信頼して生命を預ける、という態度が、どこかで必要になる、ということの智慧が、作り出したものだったのかもしれません。













