事実認定と価値判断

先日「だめじゃない」という話をちょっと書きました。

だめじゃない

「深呼吸をしようとすると、横隔膜が下がりづらいひとは、肩が上がるような形で息を吸い込むことになります」 …というような説明をすると 「肩があがっているのはダメなん…

わたしは以前、過労うつで仕事を辞めて引きこもり、布団にくるまって日がな一日ゴロゴロ…ということをやっていた時があったのですが、そんな時の過ごし方…というか、心境について、ふと気づいたことがありました。

現状を認識して、「くたびれていて、何もできない」ということを、素直に受け入れていたんだなあ…ということです。

「そんな状態ではダメだ、しっかり頑張らなければ…」というような、そんな気持ちがあったり、あるいは「このポンコツ身体め、いったいどうして動かないんだ!」と、自分の体調に呪詛をはくような、そんな思いがあったりすると、きっと、身体はさらに傷つきます。

怒りの炎は、自分がそれを出しているということだけでも、我が身を焦がしますが、まして、その炎の向かう先が自分自身では、一粒で二度…つらいことになってしまいます。

うつの方が、すっきり治りきらないのは、こうした場面で「怒り」があるからだ、と精神科医の師匠には教わりました。

こういうときの「ダメじゃないか!」っていうのは、結構つらい。

もちろん、元気になってきているのにも関わらず、お布団大好きを継続するのは、タダのサボり魔、の気配があります。わたしもうっかりそれになりかかって、友人にお尻を蹴飛ばされる勢いで、インドに行ってくることになったわけですが。

こうした、自分の思ったとおりではない状況を、ある程度しっかり、引き受けることができれば、心が穏やかでいられるわけです。

…というような話を、昨日、とあるところのYouTubeライブでお喋りしました。アーカイブが残っているようです。

このあたり、自他の境界線の話とか、課題の分離とかと、どこかで通じる内容がありそうです。

「自他の境界」と「課題の分離」ふたたび

以前から「課題の分離」ということについて、ブログを書いています。これはアドラー心理学の重要なポイントです。 先日も「課題の分離」について、課題を分離することは、…

自他の境界と課題の分離、とっても大事な話だと思っています。